「山﨑雅治」の版間の差分

提供: 大分絵巻wiki
移動先: 案内検索
 
(同じ利用者による、間の68版が非表示)
1行目: 1行目:
  
 +
'''山﨑 雅治'''(やまさき まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 )は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。
 +
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。
 +
IT業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。
 +
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。
  
'''山﨑 雅治'''(やまさき まさはる、[[1967年]][[10月15日]] )は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]。
 
生家は馬場家であるが、1998年4月5日の婚姻時に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。
 
現在でも、IT業界では効率上、馬場姓を用いる事が多い。
 
一方、飲食業界では、山﨑姓を使っている。
 
  
== 来歴 ==
 
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟の次男。兄の馬場眞澄は[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である。
 
  
[[1968年]][[12月]]、中耳炎を発症し、検査の際、腎炎・小児リュウマチが発見され、2年間、北九州市立市民病院にて入院生活をする。退院後、専業主夫の母親と共に自宅療養をする中、調理に興味を持った。
+
== 生い立ち ==
[[1973年]][[3月]]、父親の転職に伴い、北九州市から大分市に移住。小学2年生新学期から[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市立明治小学校 大分市立明治小学校]に転入し、大分市横尾の社宅住まいが始まったが、大分弁に困惑した。
+
その年、周囲からの誘いがあり、新聞配達を始めるが高校3年一杯まで欠かすこと無く続けた。
+
居住地の慣習で、小学生男子は全員が校区のソフトボールチームに所属させられ、年1回の大会に参加するが、チームプレイやスポーツが苦手な雅治は、この慣習に疑問を持っていた。
+
居住地周辺は、緑豊かで農地に囲まれた静かな場所であり、横尾貝塚や当時大分市長だった[[https://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤益美 佐藤益美氏]]私邸も近所だった。
+
  
小学4年の頃、母親が療養のため北九州にて別居することになる。残された男3人生活では食事もまままらず、社宅併設の独身寮食堂で食事をする生活は、雅治の人生の中で食の創造についての空白期間となった。
+
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟<ref>兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院]である</ref>の次男である。
馬場家の息子二人は、母の療養を受け止め、兄は「医者になってママを直す」、弟は「料理人になってママにおいしいものを食べさせる」と人生を誓った。それぞれ紆余曲折はあるものの、兄と弟は、医者と料理人になった。
+
  
小学5年のある日、男所帯に嫌気を感じ、一度、家の金をかき集め、放課後に北九州まで家出まがいの事をした。大分駅で特急ニチリンの切符を買い、ひとまず父方の実家(祖母宅)で資金を増やし、さらに遠方地へ逃走する予定だったが、孫の来訪に感激した祖母がうれしさのあまり、叔父に自慢の電話をした事から居場所を知られてしまい、逃走初日の深夜に計画失敗となった。
+
1歳の年末から2年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。
  
当時の担任の先生は、そんな言動を否定すること無く、特性を活かした学校生活を用意してくれた。
+
小学校2年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学4年の3月から[[実母との別居]]が始まった。
まだ時代的に、あきらかな知的障害に及ばない、多動やアスペルガー(高次脳機能障害)について学校側の知識も対応もなく、「きかん坊」「粗暴」「わがまま」とされていたのだが、担任は、雅治の特異性を見抜き、単独・集団のバランスを考慮してくれていた。例えば「クラス全員グループに分かれ作業をするが、馬場は一人教室に残ってイスの高さを調整しろ」と命じた。
+
もしくは、複雑な分類の作業について馬場が適任だと言った。雅治には感情論とは別に「世界観」が有ることを見抜いていた。
+
それゆえ家出まがいの事件も、何も言わなかった。
+
  
その事を受けてか、夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。
+
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。
病状は改善は見られず、変わりがないならば大分に居ようと準備を始める。4人生活の再開に心躍らせた。
+
しかし、中学校入学の2日に食道静脈瘤破裂により急遺、帰らぬ人となる。
+
  
中学2年の時、父親が後妻を迎え、現在も父親・義母共に健在である。
+
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の2日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。
  
[[1982年]][[4月]]、中学3年の春、シャープマイコン[https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=MZ-80K2E&redirect=no MZ-80K2E]を購入しプログラミングに熱中する。BASICと呼ばれるプログラミング言語を習得し思い通りのシステムが作れるようになるが、それに飽き足らずZ80マシン語を習得し、16進数の羅列を諳んじてプログラムを作り出すなど、猟奇的とも言える才能を見せる。以後、機種依存のためシャープ製パソコンを買い換え続け、同好会「OITA X2」を結成し市中のパソコンショップに未成年者数名でたむろする「デジタル不良」となった。
+
== パソコンとの出会い ==
  
[[1984年]][[4月]]、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌[[月刊I/O]]に技術記事[[「MB-GAME DOS」]]を出稿し掲載される。以後、[[「知人情報管理」]]などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。またシャープのパソコンに詳しい学生だとメーカー営業所にも知られ、新製品展示会に顔を出す様になり、時には文化祭用の景品要請や貸出機協力を受けるなど、子供らしからぬ振る舞いを見せることもあった。
+
中学2年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。
 +
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。
  
 +
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。
  
[[1985年]][[4月]]、電気通信法改正に伴い、全国で[https://ja.wikipedia.org/wiki/パソコン通信 パソコン通信]局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「[https://ja.wikipedia.org/wiki/コアラ_(企業) COARA]」が誕生した。
+
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。
遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。
+
  
COARAで出会った人たちの多くが、雅治の後の人生に大きく影響し、現在でもその関係が続く人がいる。
+
1985年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|COARA]]と言う団体が発足した。
特に、雅治の現在の妻、佐和子は同会にて出会った人であり、現在でも同居交流が続いている。
+
  
職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職試験となり、父親の奨めで新日鐵大分製鉄所のコンピュータシステムを管理するシステム部門の子会社「日鐵コンピュータシステム株式会社」を希望し、高卒は受けつけない規定を曲げて面談を頼み込み、異例の就職を決めた。高校では就職先が決まった者から自動車学校に通うのが慣習だった。このとき友人達の間で「我はBMWがいい」と言っていた。一足先に通学始めた者から「馬場の担当の教官が決まった」と告げられ、入校を決めてもないのに何故決まるのか?調べた所、自動車学校間で生徒の取り合いの末、先行する生徒から紹介料提示による動きがあったと判明し自動車学校に不信感を抱く。一方、通学費用について両親に具申したところ、ちょっとした冗談で「出さない」と言われ、それを真に受けて「じゃあ行かない」と宣言し、自力で運転免許試験場に通い、13回の不合格の末、14回目に総額3万円を切る費用で免許を取得した。
+
職業系の高校だったため、高校3年の10月は[[就職活動]]をした。
  
 +
== サラリーマン時代 ==
  
1986年4月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。
+
1986年4月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。
高卒で新入社員で社会人1年生と言えども、16歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。
+
  
研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。
+
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。
時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「UNIX」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。
+
  
仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。
+
== 転職・管理職 ==
部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに19歳でBMWを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にてソアラ2000GT-TWINTURBOを入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。
+
  
1988年4月、新日鐵グループの再編があり、社名と勤務地が変更になった。勤務地が大分製鉄所から大分市春日町ソフトパークになったため通勤負担が大きくなる。それと同時に社内の体制もかわってしまいモチベーションが低下した。その頃、COARAで知り合った東京のシステム会社との御縁で映像音響制御のシステムに興味をもった。次の会社「株式会社アクシアム」を見学して転職を決断した。父親の御縁を辿って入社した新日鐵の退職に際し、いくつかの感情論が壁となって立ちはだかったがそれを受け入れること無く、辞表を提出した。
+
1988年9月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。
  
1988年9月、新たな生活をするために、ソウルオリンピックの開会式を大分空港で見て、飛び立った。
+
[[転職|転職先]]が、新富町<ref>銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で??通りに出る位置だった</ref>だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。
東京では、セブンイレブン1号店の近く(豊洲)に住み、株式会社アクシアムの事業所は新富町だった。
+
初めての東京暮らしに浮かれ、銀座を隅々まで歩き回った。
+
同月下旬、研修でグアムに初海外旅行に行き、自分用にTISSOTの腕時計を買う。いまでも使っている。
+
仕事は、電通関連会社が担当する音響映像制御の実行部隊であり、博物館・博覧会・コンサートなどで使われる機器の制御や画面作りが任務である。当時は博覧会ブームで全国でパビリオン建設があったが、広島海と島の博覧会では現地滞在して機器を製作した。
+
現存する施設では、横浜桜木町「横浜マリタイムミュージアム」の映像展示やジオラマ制御を担当した。
+
  
アクシアムの事業拡大のため、東京と別に、大分に支店を設置する事となり、その支店長に就任する。
+
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。
特に、広島博覧会の際は、大分<=>広島間にコミュータ機が就航しており行き来の利便性もあって大分支店の任務となった。
+
しかし、大分支店開設後、思うように映像制御の受注は伸びず、事務系システムへの転換を図った。
+
雅治の行動は、COARAを通じて会員間の知るところであったため、事務系システムの発注を検討してくれる事業所が名乗りを上げてくれた。代表的なシステムは「不動産鑑定書作成支援システム」である。
+
当時、LANなどがなかった時代に、ホストコンピュータと複数台の端末機が連携するシステムを、中小企業で導入することはコスト的に難しかった時代に、それを実現した事は大きかった。
+
業績が伸びるにつれ、増員が進んだが、受注の回転タイミングにズレが生じ、大分支店は行き詰まる。
+
  
1989年7月28日、毎月行われていたCOARAの会合で定期的に新メンバーが増加していた。雅治は会場設営の任務を受け、その場の参加者に協力をあおぎ準備を進めるが、その日の新メンバーに、年商40億規模の大手地場企業三信工業の令嬢、山﨑佐和子が参加していた。現在の雅治の妻佐和子と、初めての出会いであった。
 
  
1989年12月、アクシアム大分支店を雅治が引き継ぐ形で東京本社と分離し、自己所有のソアラを売却した資金で「株式会社doクラフト」を設立した。第一号業務として、マリーンパレス高松史郎氏との御縁から映像展示を受注する。
 
また、雅治の理解者である後藤國利氏より「選挙人関連網システム」の発注を受け、同氏の市長選に効果を見せた。
 
  
雅治が高校生の時に入会しCOARAの活動で出会った方々は、doクラフトの行く末を気にかけ、折に触れ仕事や関係先の紹介を提供し、表裏で支えた。
 
  
1990年3月、社長業を武装するためにBMW525iを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。
+
== 自営業・社長業を始めて・doクラフト第1期 ==
1991年3月8日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、20時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で24時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌3月9日午前1時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。20時間ほど昏睡状態を経て3月10日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。2週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、2台分の支払いをする。
+
  
19??年、レンタルビデオの自動販売機をカナダから輸入するプロジェクトに参加し、その画面の日本語化を検討するチーフとして、カナダトロントに赴く。
+
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[doクラフト|株式会社doクラフト]]」を設立した。
 +
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。
  
19??年、インテックと共同で、パソコン通信局間の投稿記事を相互に転送する「POSTMANシステム」を開発する。
+
1991年3月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時doクラフトの廃業も検討された。
  
19??年、地場ソフトウェア会社の仲介で、富士通の下請け作業に入る。当時、大分地場の零細ソフトハウスは、富士通のと取引を持つことがステータスかつ安定経営の道であった。仲介会社は当時の市政との強力なつながりで建設業を中心に幅広い事業展開を行っており、自社が優位にあるとの態度で接してきた。それを直感した雅治は、業契約書に当時の慣例ではあり得ない条項を挟み込み事に望んだ。結果、下請けに責任のしわ寄せが来る展開となり、プロジェクトの遅延責任に及んだ。解決の協議という名の圧迫が続き、先方の弁護士から法的措置云々との常套句を投げかけられるが、特殊な条文が機能したため訴訟に至ることも無く、仲介会社が責任を取る結果になった。
+
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。
  
  
[[1994年]]夏、大分市内にCATVの普及が進み、その中核は大分ケーブルテレビが担っていた。同社の制作部長、大島三平氏から、独自番組制作の可能性を提示され、ドキュメンタリー番組を計画する。取材対象は、現代美術作家の活動と定め、そのコネクションに於いて大分では第一人者と言われる二宮圭一氏とチームを組むこととなった。
 
  
[[1994年]]秋、当時のTV放送に耐えうるビデオカメラや編集設備を整えると1000万円近くかかるのだが、対比費用効果を逆視点に、ようやく導入が始まったノンリニア編集で番組作りを行う決断をする。SONY VX-1とパソコン編集システムだけをそろえた。
+
時代はバブル経済のさなか。
  
[[1994年]]11月、第1回目の放送を目前に控え、福岡県福岡市で展開されていた「ミュージアムシティー福岡」へ二宮圭一氏と赴いた。
+
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、
 +
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。
  
[[1994年]][[11月21日]]、試験放送ではあったが、24時から30分間、新番組「[[NEWAGEARTCUT]]」の放送が開始した。以後、2000年3月26日まで、毎週1本づつ、計246本の番組を放送し続けた。
+
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。
  
 +
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。
 +
特に、TVゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。
 +
#トラブルを参照
  
 +
== モテ期 ==
  
1993年12月3日、自動車会社オペルが、世界で始めて自動車メーカーホームページを公開した。その立ち上げにテクニカルメンバーとして参加した。
+
バブルに乗って、
 +
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。
 +
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。
  
 +
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。
 +
 +
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター2Fにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を1年ほど続けた。
 +
 +
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。
 +
 +
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復5万円を聞き、ハワイへ旅行する。
 +
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。 現在でも愛用している。
 +
 +
== doクラフト第2期・低空飛行 ==
 +
 +
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。
 +
まだPC98が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。
 +
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。
 +
 +
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。
 +
 +
・コンクリート製品販売管理
 +
・物販在庫管理
 +
・会員管理
 +
 +
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。
 +
 +
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。
 +
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。
 +
 +
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。
 +
 +
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、doクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。
 +
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。
 +
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。
 +
 +
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。
 +
 +
== doクラフト第3期・下請け会社として ==
 +
 +
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。
 +
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。
 +
 +
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、
 +
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。
 +
 +
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、
 +
大分リースには、15ヶ月もの延滞をしてしまった。
 +
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、3年分もの家賃を滞らせていた。
 +
 +
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。
 +
 +
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。
 +
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。
 +
 +
ほとなく、旧知の友人より、CATV開局の話を聞き、doクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、OCT代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。
 +
 +
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。
 +
 +
番組の関係で出入りするCATV局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのCAD入力の任務を打診された。
 +
CADシステムを納入した「CADIX」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。<ref>のち、アンクルアンティークと改称する。</ref>
 +
 +
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==
 +
 +
doクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、doクラフトは休眠にすることにした。
 +
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、CAD入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。
 +
 +
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がIT系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。
 +
 +
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータTEMS」(文部省)
 +
*生活習慣病データベース(厚生省)
 +
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」(文部省)
 +
 +
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。
 +
 +
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。
 +
 +
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==
 +
 +
 +
1998年4月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第1子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。
 +
 +
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。
 +
 +
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年7月に一般公開した。
 +
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に1万人の会員を集める有名サイトになった。
 +
 +
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるITベンチャー設立を提案してきた。
 +
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。
 +
 +
2001年2月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。
 +
また、事業ともう1つの柱として、馬場雅治のIT技術を学ぶIT塾を開校した。
 +
 +
「ITスペシャリスト養成スクール BBーBrunch」(通称:馬場塾)
 +
 +
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ21人が巣立っていった。
 +
 +
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、
 +
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」(サントリー)日本初のリアルタイムセルリキシステム
 +
は、塾生のOJTをかねて取り組んだ。
 +
 +
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。
 +
 +
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。
 +
 +
馬場塾が第3期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。
 +
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。
 +
 +
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。
 +
 +
== 人生の転換期 ==
 +
 +
 +
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。
 +
婚姻の条件に、家業:三信工業を受け継ぐ事を約束し、2003年から取り組みを開始した。
 +
 +
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたIT事業の受け入れ先として、三信工業内にIT事業部を設立し、既存社員4名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。
 +
 +
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。
 +
 +
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。
 +
 +
平成の時代・21世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。
 +
 +
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。
 +
 +
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。
 +
 +
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、1年ほど浪人生活をする。
 +
 +
== 飲食業 ==
 +
 +
2005年8月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったIT系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。
 +
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。
 +
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が1つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。
 +
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。
 +
 +
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。
 +
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。
 +
 +
2006年9月10日、自宅前で「[[カレーワゴンNo2mas]]」が開店したのだった。
 +
 +
== 私生活 ==
 +
 +
 +
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。
 +
 +
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。
 +
苦手な分野(例えばチームスポーツ全般)には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。
 +
 +
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。
 +
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか?」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。
 +
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。
 +
 +
高校生までは、24時間365日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。
 +
 +
1987年7月28日、毎月行われていたパソコン通信団体COARAの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。
 +
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。
 +
 +
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。
 +
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。
 +
 +
そんな中、doクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。
 +
 +
1995年2月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、CATV向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のCAで旅費を低く抑える方法<ref>「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる</ref>があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。
 +
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。
 +
 +
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。
 +
 +
そして、
 +
1998年4月5日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。
 +
 +
*1999年6月12日、長女、詩音(うたね) 誕生
 +
*2001年8月16日、次女、真凪(まなぎ) 誕生
 +
*2005年4月18日、三女、紗代実(さよみ) 誕生
 +
 +
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った
 +
 +
 +
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。
 +
 +
実は、根っからの子供キライなのである。
 +
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。
 +
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。
 +
 +
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。
 +
 +
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。
 +
しかし、その為には24時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。
 +
 +
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。
 +
 +
== 業務システム開発(従事)実績 ==
 +
 +
* Postman(インテック):サーバー間メッセージ転送システム
 +
* J−Framss(地域科学研究所):不動産鑑定書作成支援システム
 +
* Wire(後藤國利事務所):後援会名簿管理システム
 +
* 生活習慣病データベース(厚生省(当時)):産業医支援システム
 +
* キャンパスネットナビゲータ(早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学):授業支援システム
 +
* 脳の鏡(文部省(当時)):再構成型描画ソフトウェア
 +
* 番組編成システム(DNAC-TV):CS番組編成システム
 +
* 魚に聞いたさかなの話(マリーンパレス):生態紹介映像システム
 +
* ネルソンベンディング(ALAN):レンタルビデオ自動手続きシステム
 +
* 自動納入システム(アドプロ長野):電光掲示板ファイル納品システム
 +
 +
 +
 +
== webシステム開発(従事)実績 ==
 +
 +
* エスエス製薬:販促キャンペーン受付サイト
 +
* ほのぼのレイク:販促キャンペーン受付サイト
 +
* 情報検索システム(東京モーターショウ):自動車検索データベース
 +
* 海辺の小瓶システム(アイルテクノロジーズ):メール友達募集サイト
 +
*わしゃ見た!(デジタルバンク):おもしろ情報投稿サイト
 +
* 情報検索システム(時計Begin):アンティークウォッチ検索データベース
 +
* ファンド情報データベース(新光投信):投資信託データベースシステム
 +
* GUI型サーバー(JETON):FirstClassシステム
 +
* 新宿情報館システム(dia建設):物件情報システム
 +
* ライブシャッター(国土交通省):国道監視映像web化システム
 +
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」(サントリー):セルフリキデーションシステム
 +
* OPEL社<ref>自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった</ref> ホームページVer1.0(グラフィック支援) 
 +
* 大分ケーブルテレビ放送 ホームページ
 +
* 港区神応小学校 ホームページ
 +
* ホテル芙蓉倶楽部 ホームページ
 +
* デジグラム:VideoCDサービス
 +
 +
== 映像制作実績 ==
 +
 +
*NEWAGEARTCUT(現代美術作家ドキュメンタリー)企画・制作
 +
*Project DEGIGRAM(パソコン番組)企画・制作
 +
*対戦テロップ表示(TOS)全国高校相撲選手権対戦映像 制作
 +
*大分ケーブルテレビ放送殿 社ロゴ他3Dアニメーション 制作
 +
*日新信販殿 テレビCM制作(クモの糸編・ジグソーパズル編)    
 +
*臼杵市月桂寺檀家組合殿 月桂寺修復イメージ映像制作
 +
*やまばと幼稚園殿 卒園式記念映像制作
 +
*電光掲示板画像製作
 +
 +
 +
 +
 +
== トラブル ==
 +
 +
*大手の下請け作業に着手するが[[TNBソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]
 +
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅
 +
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫
 +
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した
  
 
== 年譜 ==
 
== 年譜 ==
* [[1967年]][[10月15日]] - [[https://ja.wikipedia.org/wiki/福岡県 福岡県]][[北九州市]]にて出生
+
 
* [[1973年]]3月 - [[北九州市立柄杓田小学校]]入学
+
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]
* [[1974年]]4月 -[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市立明治小学校 大分市立明治小学校]に転校
+
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]
* [[1980年]]3月 - 大分市立明治小学校卒業
+
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]
* [[1983年]]
+
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]
** 3月 - [https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市立大東中学校 大分市立大東中学校]卒業
+
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]
** 4月 - [https://ja.wikipedia.org/wiki/大分県立鶴崎工業高等学校 大分県立鶴崎工業高等学校電気科]入学
+
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]
* [[1986年]]
+
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]
** 3月 - [[wikipedia:ja:大分県立鶴崎工業高等学校|大分県立鶴崎工業高等学校]]電気科卒業
+
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]
** 4月 - [[日鐵コンピュータシステム株式会社]]入社
+
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]
*[[1988年]][[9月]][[新日鐵情報通信システム株式会社]]退社
+
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]
*[[1988年]][[10月]]、株式会社アクシアム入社、取締役大分支店長に就任
+
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]
*[[1989年]][[11月30日]]、株式会社アクシアム 取締役辞任
+
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]
*[[1989年]][[12月25日]][[株式会社doクラフト]]設立、代表取締役に就任
+
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|COARAとの出会い]]
 +
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]
 +
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]
 +
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]
 +
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]
 +
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]
 +
*[[1989年]][[12月25日]] - [[doクラフト|doクラフト設立]]
 +
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]
 +
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]
 +
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]
 +
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
120行目: 350行目:
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社doクラフト]
+
 
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト
+
* [https://www.docom.co.jp/ 株式会社doクラフト]
 +
* [https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院 - 公式サイト]
 +
 
  
 
{{デフォルトソート:やまさき まさはる}}
 
{{デフォルトソート:やまさき まさはる}}

2025年12月8日 (月) 12:57時点における最新版

山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 旧姓「馬場」 )は、日本の創作家、営利企業代表者。 生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。 IT業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。 [大分県大分市]在住。


生い立ち

1967年10月15日[福岡県北九州市門司区]生まれ。馬場家の二人兄弟<ref>兄の馬場眞澄は産婦人科医で医療法人聖粒会慈恵病院である</ref>の次男である。

1歳の年末から2年間、長期入院を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。

小学校2年生へ進級に合わせ、北九州市から大分市に引っ越しをしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学4年の3月から実母との別居が始まった。

自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、北九州に家出をした。

その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の2日前に急遺、帰らぬ人となる。

パソコンとの出会い

中学2年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。 兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、マイコン少年になる。

やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。

マイコン少年も、時代に乗って、パソコン少年へと成長する。

1985年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でもCOARAと言う団体が発足した。

職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職活動をした。

サラリーマン時代

1986年4月、人生の中で唯一のサラリーマン社会人生活が始まる。

父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。

転職・管理職

1988年9月、サラリーマン生活の終了、そして東京暮らし。

転職先が、新富町<ref>銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で??通りに出る位置だった</ref>だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。

その後、転職時の条件通り、大分での活動を始める。



自営業・社長業を始めて・doクラフト第1期

アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「株式会社doクラフト」を設立した。 仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。

1991年3月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に 生死をさまよう大事を起こし、一時doクラフトの廃業も検討された。

東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。


時代はバブル経済のさなか。

堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、 人員の増加や、過剰な設備投資に走る。

特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。

しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。 特に、TVゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。 #トラブルを参照

モテ期

バブルに乗って、 社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。 市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。

人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。

初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター2Fにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を1年ほど続けた。

以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。

このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復5万円を聞き、ハワイへ旅行する。 ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。 現在でも愛用している。

doクラフト第2期・低空飛行

首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。 まだPC98が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。 そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。

これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。

・コンクリート製品販売管理 ・物販在庫管理 ・会員管理

などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。

結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。 また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。

しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。

窮状を心配した先輩経営者兄弟が、doクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。 その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。 接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。

このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。

doクラフト第3期・下請け会社として

経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。 実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。

一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、 「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。

大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、 大分リースには、15ヶ月もの延滞をしてしまった。 特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、3年分もの家賃を滞らせていた。

いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。

体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。 意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。

ほとなく、旧知の友人より、CATV開局の話を聞き、doクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、OCT代理店業務と番組制作を開始した。

代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。

番組の関係で出入りするCATV局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのCAD入力の任務を打診された。 CADシステムを納入した「CADIX」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。<ref>のち、アンクルアンティークと改称する。</ref>

企業グループの再編・二巡目モテ期

doクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、doクラフトは休眠にすることにした。 継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、CAD入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。

この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がIT系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。

  • 授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータTEMS」(文部省)
  • 生活習慣病データベース(厚生省)
  • 再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」(文部省)

扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。

また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。

共同出資による起業・三巡目モテ期

1998年4月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第1子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。

従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。

その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年7月に一般公開した。 当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に1万人の会員を集める有名サイトになった。

この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるITベンチャー設立を提案してきた。 この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。

2001年2月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。 また、事業ともう1つの柱として、馬場雅治のIT技術を学ぶIT塾を開校した。

「ITスペシャリスト養成スクール BBーBrunch」(通称:馬場塾)

この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ21人が巣立っていった。

アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、 ・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」(サントリー)日本初のリアルタイムセルリキシステム は、塾生のOJTをかねて取り組んだ。

アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。

代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。

馬場塾が第3期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。 それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。

齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。

人生の転換期

妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。 婚姻の条件に、家業:三信工業を受け継ぐ事を約束し、2003年から取り組みを開始した。

雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたIT事業の受け入れ先として、三信工業内にIT事業部を設立し、既存社員4名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。

まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。

この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。

平成の時代・21世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。

一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。

結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。

一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、1年ほど浪人生活をする。

飲食業

2005年8月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったIT系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。 実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。 タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が1つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。 ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。

翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。 これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。

2006年9月10日、自宅前で「カレーワゴンNo2mas」が開店したのだった。

私生活

幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。

感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。 苦手な分野(例えばチームスポーツ全般)には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。

そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。 目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか?」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。 例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。

高校生までは、24時間365日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。

1987年7月28日、毎月行われていたパソコン通信団体COARAの会合で、新規会員として参加した現妻山﨑佐和子と出会い、長期に渡る関係の初日となった。 佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。

卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。 互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。

そんな中、doクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。

1995年2月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、CATV向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のCAで旅費を低く抑える方法<ref>「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる</ref>があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。 性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。

ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。

そして、 1998年4月5日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。

  • 1999年6月12日、長女、詩音(うたね) 誕生
  • 2001年8月16日、次女、真凪(まなぎ) 誕生
  • 2005年4月18日、三女、紗代実(さよみ) 誕生

2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った


長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。

実は、根っからの子供キライなのである。 理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。 同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。

ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。

自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。 しかし、その為には24時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。

乳児と過ごすシステム」としてとらえており、子育てとは思っていない。

業務システム開発(従事)実績

  • Postman(インテック):サーバー間メッセージ転送システム
  • J−Framss(地域科学研究所):不動産鑑定書作成支援システム
  • Wire(後藤國利事務所):後援会名簿管理システム
  • 生活習慣病データベース(厚生省(当時)):産業医支援システム
  • キャンパスネットナビゲータ(早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学):授業支援システム
  • 脳の鏡(文部省(当時)):再構成型描画ソフトウェア
  • 番組編成システム(DNAC-TV):CS番組編成システム
  • 魚に聞いたさかなの話(マリーンパレス):生態紹介映像システム
  • ネルソンベンディング(ALAN):レンタルビデオ自動手続きシステム
  • 自動納入システム(アドプロ長野):電光掲示板ファイル納品システム


webシステム開発(従事)実績

  • エスエス製薬:販促キャンペーン受付サイト
  • ほのぼのレイク:販促キャンペーン受付サイト
  • 情報検索システム(東京モーターショウ):自動車検索データベース
  • 海辺の小瓶システム(アイルテクノロジーズ):メール友達募集サイト
  • わしゃ見た!(デジタルバンク):おもしろ情報投稿サイト
  • 情報検索システム(時計Begin):アンティークウォッチ検索データベース
  • ファンド情報データベース(新光投信):投資信託データベースシステム
  • GUI型サーバー(JETON):FirstClassシステム
  • 新宿情報館システム(dia建設):物件情報システム
  • ライブシャッター(国土交通省):国道監視映像web化システム
  • ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」(サントリー):セルフリキデーションシステム
  • OPEL社<ref>自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった</ref> ホームページVer1.0(グラフィック支援) 
  • 大分ケーブルテレビ放送 ホームページ
  • 港区神応小学校 ホームページ
  • ホテル芙蓉倶楽部 ホームページ
  • デジグラム:VideoCDサービス

映像制作実績

  • NEWAGEARTCUT(現代美術作家ドキュメンタリー)企画・制作
  • Project DEGIGRAM(パソコン番組)企画・制作
  • 対戦テロップ表示(TOS)全国高校相撲選手権対戦映像 制作
  • 大分ケーブルテレビ放送殿 社ロゴ他3Dアニメーション 制作
  • 日新信販殿 テレビCM制作(クモの糸編・ジグソーパズル編)    
  • 臼杵市月桂寺檀家組合殿 月桂寺修復イメージ映像制作
  • やまばと幼稚園殿 卒園式記念映像制作
  • 電光掲示板画像製作



トラブル

  • 大手の下請け作業に着手するが訴訟まがいの失敗
  • 大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との連携ミスで開発消滅
  • スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫
  • 代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した

年譜

脚注

{{#if: |テンプレート:Notice

}}
1 }}
     | テンプレート:Column-width
     | テンプレート:Column-count }}
   | {{#if: 
     | テンプレート:Column-width }} }} list-style-type: {{#switch: 
   | upper-alpha
   | upper-roman
   | lower-alpha
   | lower-greek
   | lower-roman = {{{group}}}
   | #default = decimal}};">
<references group=""></references>

外部リンク