山﨑雅治

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山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 旧姓「馬場」 )は、日本の創作家、営利企業代表者。 生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。 IT業界では効率上、馬場姓を用いる事が多い。 [大分県大分市]在住。


来歴

1967年10月15日[福岡県北九州市門司区]生まれ。馬場家の二人兄弟<ref>兄の馬場眞澄は産婦人科医でアルメイダ病院の産婦人科部長である</ref>の次男。

1歳の年末から2年間、長期入院をする。

小学校2年生へ進級に合わせ、北九州市から大分市に引っ越しをする。

小学4年の3月、実母との別居が始まった。

長期入院の経験から、母親との近距離感が生活の柱だったが、別居と男所帯に嫌気を感じ、北九州に家出をした。

実母の容態は改善せず、中学校入学の2日に急遺、帰らぬ人となる。

中学2年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。

兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響でマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、マイコン少年になる。

やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。

マイコン少年も、時代に乗って、パソコン少年へと成長する。

1985年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でもCOARAと言う団体が発足した。

職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職活動をした。

1986年4月、人生の中で唯一の社会人生活が始まる。

1988年9月、サラリーマン生活の終了、そして東京暮らし。

アクシアムの事業拡大のため、東京と別に、大分に支店を設置する事となり、その支店長に就任する。 特に、広島博覧会の際は、大分<=>広島間にコミュータ機が就航しており行き来の利便性もあって大分支店の任務となった。 しかし、大分支店開設後、思うように映像制御の受注は伸びず、事務系システムへの転換を図った。 雅治の行動は、COARAを通じて会員間の知るところであったため、事務系システムの発注を検討してくれる事業所が名乗りを上げてくれた。代表的なシステムは「不動産鑑定書作成支援システム」である。 当時、LANなどがなかった時代に、ホストコンピュータと複数台の端末機が連携するシステムを、中小企業で導入することはコスト的に難しかった時代に、それを実現した事は大きかった。 業績が伸びるにつれ、増員が進んだが、受注の回転タイミングにズレが生じ、大分支店は行き詰まる。

1989年7月28日、毎月行われていたCOARAの会合で定期的に新メンバーが増加していた。雅治は会場設営の任務を受け、その場の参加者に協力をあおぎ準備を進めるが、その日の新メンバーに、年商40億規模の大手地場企業三信工業の令嬢、山﨑佐和子が参加していた。現在の雅治の妻佐和子と、初めての出会いであった。

1989年12月、アクシアム大分支店を雅治が引き継ぐ形で東京本社と分離し、自己所有のソアラを売却した資金で「株式会社doクラフト」を設立した。第一号業務として、マリーンパレス高松史郎氏との御縁から映像展示を受注する。 また、雅治の理解者である後藤國利氏より「選挙人関連網システム」の発注を受け、同氏の市長選に効果を見せた。

雅治が高校生の時に入会しCOARAの活動で出会った方々は、doクラフトの行く末を気にかけ、折に触れ仕事や関係先の紹介を提供し、表裏で支えた。

1990年3月、 生死をさまよう大事を起こした。

19??年、レンタルビデオの自動販売機をカナダから輸入するプロジェクトに参加し、その画面の日本語化を検討するチーフとして、カナダトロントに赴く。

19??年、インテックと共同で、パソコン通信局間の投稿記事を相互に転送する「POSTMANシステム」を開発する。

19??年、地場ソフトウェア会社の仲介で、富士通の下請け作業に入る。当時、大分地場の零細ソフトハウスは、富士通のと取引を持つことがステータスかつ安定経営の道であった。仲介会社は当時の市政との強力なつながりで建設業を中心に幅広い事業展開を行っており、自社が優位にあるとの態度で接してきた。それを直感した雅治は、業契約書に当時の慣例ではあり得ない条項を挟み込み事に望んだ。結果、下請けに責任のしわ寄せが来る展開となり、プロジェクトの遅延責任に及んだ。解決の協議という名の圧迫が続き、先方の弁護士から法的措置云々との常套句を投げかけられるが、特殊な条文が機能したため訴訟に至ることも無く、仲介会社が責任を取る結果になった。


1994年夏、大分市内にCATVの普及が進み、その中核は大分ケーブルテレビが担っていた。同社の制作部長、大島三平氏から、独自番組制作の可能性を提示され、ドキュメンタリー番組を計画する。取材対象は、現代美術作家の活動と定め、そのコネクションに於いて大分では第一人者と言われる二宮圭一氏とチームを組むこととなった。

1994年秋、当時のTV放送に耐えうるビデオカメラや編集設備を整えると1000万円近くかかるのだが、対比費用効果を逆視点に、ようやく導入が始まったノンリニア編集で番組作りを行う決断をする。SONY VX-1とパソコン編集システムだけをそろえた。

1994年11月、第1回目の放送を目前に控え、福岡県福岡市で展開されていた「ミュージアムシティー福岡」へ二宮圭一氏と赴いた。

1994年11月21日、試験放送ではあったが、24時から30分間、新番組「NEWAGEARTCUT」の放送が開始した。以後、2000年3月26日まで、毎週1本づつ、計246本の番組を放送し続けた。


1993年12月3日、自動車会社オペルが、世界で始めて自動車メーカーホームページを公開した。その立ち上げにテクニカルメンバーとして参加した。


年譜

脚注

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外部リンク