「山﨑雅治」の版間の差分

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* [[1967年]][[10月15日]] - [[https://ja.wikipedia.org/wiki/福岡県 福岡県]][[北九州市]]にて出生
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*[[1968年]][[12月]][[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]
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*[[1973年]][[03月]][[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]
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*[[1978年]][[03月]][[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]
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*[[1979年]][[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]
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*[[1980年]][[04月09日]][[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]
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*[[1982年]][[04月]][[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]
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*[[1985年]][[04月]][[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]
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*[[1985年]][[04月]][[パソコン通信|COARAとの出会い]]
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*[[1989年]][[12月25日]][[doクラフト|doクラフト設立]]
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*[[1989年]][[06月13日]][[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]
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*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]][[交通事故|生死をさまよう大事故]]
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*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]][[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]* [[1967年]][[10月15日]] - [[https://ja.wikipedia.org/wiki/福岡県 福岡県]][[北九州市]]にて出生
 
* [[1973年]]3月 - [[北九州市立柄杓田小学校]]入学
 
* [[1973年]]3月 - [[北九州市立柄杓田小学校]]入学
 
* [[1974年]]4月 -[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市立明治小学校 大分市立明治小学校]に転校
 
* [[1974年]]4月 -[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市立明治小学校 大分市立明治小学校]に転校

2016年6月7日 (火) 18:03時点における版

山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 旧姓「馬場」 )は、日本の創作家、営利企業代表者。 生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。 IT業界では効率上、馬場姓を用いる事が多い。 [大分県大分市]在住。


来歴

1967年10月15日[福岡県北九州市門司区]生まれ。馬場家の二人兄弟<ref>兄の馬場眞澄は産婦人科医でアルメイダ病院の産婦人科部長である</ref>の次男。

1歳の年末から2年間、長期入院をする。

小学校2年生へ進級に合わせ、北九州市から大分市に引っ越しをする。

小学4年の3月、実母との別居が始まった。

長期入院の経験から、母親との近距離感が生活の柱だったが、別居と男所帯に嫌気を感じ、北九州に家出をした。

実母の容態は改善せず、中学校入学の2日に急遺、帰らぬ人となる。

中学2年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。

兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響でマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、マイコン少年になる。

やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。

マイコン少年も、時代に乗って、パソコン少年へと成長する。

1985年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でもCOARAと言う団体が発足した。



職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職試験となり、父親の奨めで新日鐵大分製鉄所のコンピュータシステムを管理するシステム部門の子会社「日鐵コンピュータシステム株式会社」を希望し、高卒は受けつけない規定を曲げて面談を頼み込み、異例の就職を決めた。高校では就職先が決まった者から自動車学校に通うのが慣習だった。このとき友人達の間で「我はBMWがいい」と言っていた。一足先に通学始めた者から「馬場の担当の教官が決まった」と告げられ、入校を決めてもないのに何故決まるのか?調べた所、自動車学校間で生徒の取り合いの末、先行する生徒から紹介料提示による動きがあったと判明し自動車学校に不信感を抱く。一方、通学費用について両親に具申したところ、ちょっとした冗談で「出さない」と言われ、それを真に受けて「じゃあ行かない」と宣言し、自力で運転免許試験場に通い、13回の不合格の末、14回目に総額3万円を切る費用で免許を取得した。


1986年4月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 高卒で新入社員で社会人1年生と言えども、16歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。

研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。 時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「UNIX」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。

仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。 部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに19歳でBMWを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にてソアラ2000GT-TWINTURBOを入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。

1988年4月、新日鐵グループの再編があり、社名と勤務地が変更になった。勤務地が大分製鉄所から大分市春日町ソフトパークになったため通勤負担が大きくなる。それと同時に社内の体制もかわってしまいモチベーションが低下した。その頃、COARAで知り合った東京のシステム会社との御縁で映像音響制御のシステムに興味をもった。次の会社「株式会社アクシアム」を見学して転職を決断した。父親の御縁を辿って入社した新日鐵の退職に際し、いくつかの感情論が壁となって立ちはだかったがそれを受け入れること無く、辞表を提出した。

1988年9月、新たな生活をするために、ソウルオリンピックの開会式を大分空港で見て、飛び立った。 東京では、セブンイレブン1号店の近く(豊洲)に住み、株式会社アクシアムの事業所は新富町だった。 初めての東京暮らしに浮かれ、銀座を隅々まで歩き回った。 同月下旬、研修でグアムに初海外旅行に行き、自分用にTISSOTの腕時計を買う。いまでも使っている。 仕事は、電通関連会社が担当する音響映像制御の実行部隊であり、博物館・博覧会・コンサートなどで使われる機器の制御や画面作りが任務である。当時は博覧会ブームで全国でパビリオン建設があったが、広島海と島の博覧会では現地滞在して機器を製作した。 現存する施設では、横浜桜木町「横浜マリタイムミュージアム」の映像展示やジオラマ制御を担当した。

アクシアムの事業拡大のため、東京と別に、大分に支店を設置する事となり、その支店長に就任する。 特に、広島博覧会の際は、大分<=>広島間にコミュータ機が就航しており行き来の利便性もあって大分支店の任務となった。 しかし、大分支店開設後、思うように映像制御の受注は伸びず、事務系システムへの転換を図った。 雅治の行動は、COARAを通じて会員間の知るところであったため、事務系システムの発注を検討してくれる事業所が名乗りを上げてくれた。代表的なシステムは「不動産鑑定書作成支援システム」である。 当時、LANなどがなかった時代に、ホストコンピュータと複数台の端末機が連携するシステムを、中小企業で導入することはコスト的に難しかった時代に、それを実現した事は大きかった。 業績が伸びるにつれ、増員が進んだが、受注の回転タイミングにズレが生じ、大分支店は行き詰まる。

1989年7月28日、毎月行われていたCOARAの会合で定期的に新メンバーが増加していた。雅治は会場設営の任務を受け、その場の参加者に協力をあおぎ準備を進めるが、その日の新メンバーに、年商40億規模の大手地場企業三信工業の令嬢、山﨑佐和子が参加していた。現在の雅治の妻佐和子と、初めての出会いであった。

1989年12月、アクシアム大分支店を雅治が引き継ぐ形で東京本社と分離し、自己所有のソアラを売却した資金で「株式会社doクラフト」を設立した。第一号業務として、マリーンパレス高松史郎氏との御縁から映像展示を受注する。 また、雅治の理解者である後藤國利氏より「選挙人関連網システム」の発注を受け、同氏の市長選に効果を見せた。

雅治が高校生の時に入会しCOARAの活動で出会った方々は、doクラフトの行く末を気にかけ、折に触れ仕事や関係先の紹介を提供し、表裏で支えた。

1990年3月、 生死をさまよう大事を起こした。

19??年、レンタルビデオの自動販売機をカナダから輸入するプロジェクトに参加し、その画面の日本語化を検討するチーフとして、カナダトロントに赴く。

19??年、インテックと共同で、パソコン通信局間の投稿記事を相互に転送する「POSTMANシステム」を開発する。

19??年、地場ソフトウェア会社の仲介で、富士通の下請け作業に入る。当時、大分地場の零細ソフトハウスは、富士通のと取引を持つことがステータスかつ安定経営の道であった。仲介会社は当時の市政との強力なつながりで建設業を中心に幅広い事業展開を行っており、自社が優位にあるとの態度で接してきた。それを直感した雅治は、業契約書に当時の慣例ではあり得ない条項を挟み込み事に望んだ。結果、下請けに責任のしわ寄せが来る展開となり、プロジェクトの遅延責任に及んだ。解決の協議という名の圧迫が続き、先方の弁護士から法的措置云々との常套句を投げかけられるが、特殊な条文が機能したため訴訟に至ることも無く、仲介会社が責任を取る結果になった。


1994年夏、大分市内にCATVの普及が進み、その中核は大分ケーブルテレビが担っていた。同社の制作部長、大島三平氏から、独自番組制作の可能性を提示され、ドキュメンタリー番組を計画する。取材対象は、現代美術作家の活動と定め、そのコネクションに於いて大分では第一人者と言われる二宮圭一氏とチームを組むこととなった。

1994年秋、当時のTV放送に耐えうるビデオカメラや編集設備を整えると1000万円近くかかるのだが、対比費用効果を逆視点に、ようやく導入が始まったノンリニア編集で番組作りを行う決断をする。SONY VX-1とパソコン編集システムだけをそろえた。

1994年11月、第1回目の放送を目前に控え、福岡県福岡市で展開されていた「ミュージアムシティー福岡」へ二宮圭一氏と赴いた。

1994年11月21日、試験放送ではあったが、24時から30分間、新番組「NEWAGEARTCUT」の放送が開始した。以後、2000年3月26日まで、毎週1本づつ、計246本の番組を放送し続けた。


1993年12月3日、自動車会社オペルが、世界で始めて自動車メーカーホームページを公開した。その立ち上げにテクニカルメンバーとして参加した。


年譜

脚注

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外部リンク