山﨑雅治
山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 - )は、日本の創作家、営利企業代表者官僚。大分県大分。
来歴
福岡県北九州市門司区生まれ。馬場家の二人兄弟の次男。兄の馬場眞澄はアルメイダ病院の産婦人科部長である。
1968年12月、中耳炎を発症し、検査の際、腎炎・小児リュウマチが発見され、2年間、北九州市立市民病院にて入院生活をする。退院後、専業主夫の母親と共に自宅療養をする中、調理に興味を持った。 1973年3月、父親の転職に伴い、北九州市から大分市に移住。小学2年生新学期から大分市立明治小学校に転入し、大分弁に困惑した。 その年、周囲からの誘いがあり、新聞配達を始めるが高校3年一杯まで欠かすこと無く続けた。 1982年4月、中学3年の春、シャープマイコンMZ-80K2Eを購入しプログラミングに熱中する。BASICと呼ばれるプログラミング言語を習得し思い通りのシステムが作れるようになるが、それに飽き足らずZ80マシン語を習得し、16進数の羅列を諳んじてプログラムを作り出すなど、猟奇的とも言える才能を見せる。以後、機種依存のためシャープ製パソコンを買い換え続け、同好会「OITA X2」を結成し市中のパソコンショップに未成年者数名でたむろする「デジタル不良」となった。 1984年4月、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌月刊I/Oに技術記事「MB-GAME DOS」を出稿し掲載される。以後、「知人情報管理」などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。
1985年4月、電気通信法改正に伴い、全国でパソコン通信局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「COARA」が誕生した。 遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。
同会で出会った人たちの多くが、雅治の後の人生に大きく影響し、現在でもその関係が続いている人もいる。 特に、雅治の現在の妻佐和子は、同会にて出会った人であり、現在でも同居交流が続いている。
年譜
- 1967年10月15日 - 福岡県北九州市にて出生
- 1973年3月 - 北九州市立柄杓田小学校入学
- 1974年4月 -大分市立明治小学校に転校
- 1980年3月 - 大分市立明治小学校卒業
- 1983年
- 3月 - 大分市立大東中学校卒業
- 4月 - 大分県立鶴崎工業高校電気科入学
- 1986年
- 3月 - 大分県立鶴崎工業高校電気科卒業
- 4月 - 大分ニックス株式会社入社
1988年9月、新日鐵情報通信システム株式会社退社。 1988年10月、株式会社アクシアム入社、取締役大分支店長に就任。 1989年12月、株式会社アクシアム 取締役辞任。 1989年12月、株式会社doクラフト設立、代表取締役に就任。
脚注
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