「山﨑雅治」の版間の差分
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馬場家の息子二人は、母の療養を受け止め、兄は「医者になってママを直す」、弟は「料理人になってママにおいしいものを食べさせる」と人生を誓った。それぞれ紆余曲折はあるものの、兄と弟は、医者と料理人になった。 | 馬場家の息子二人は、母の療養を受け止め、兄は「医者になってママを直す」、弟は「料理人になってママにおいしいものを食べさせる」と人生を誓った。それぞれ紆余曲折はあるものの、兄と弟は、医者と料理人になった。 | ||
| − | + | 小学5年のある日、男所帯に嫌気を感じ、一度、家の金をかき集め、放課後に北九州まで家出まがいの事をした。大分駅で特急ニチリンの切符を買い、ひとまず父方の実家(祖母宅)で資金を増やし、さらに遠方地へ逃走する予定だったが、孫の来訪に感激した祖母がうれしさのあまり、叔父に自慢の電話をした事から居場所を知られてしまい、逃走初日の深夜に計画失敗となった。 | |
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| + | 当時の担任の先生は、そんな言動を否定すること無く、特性を活かした学校生活を用意してくれた。 | ||
| + | まだ時代的に、あきらかな知的障害に及ばない、多動やアスペルガー(高次脳機能障害)について学校側の知識も対応もなく、「きかん坊」「粗暴」「わがまま」とされていたのだが、担任は、雅治の特異性を見抜き、単独・集団のバランスを考慮してくれていた。例えば「クラス全員グループに分かれ作業をするが、馬場は一人教室に残ってイスの高さを調整しろ」と命じた。 | ||
| + | もしくは、複雑な分類の作業について馬場が適任だと言った。雅治には感情論とは別に「世界観」が有ることを見抜いていた。 | ||
| + | それゆえ家出まがいの事件も、何も言わなかった。 | ||
その事を受けてか、夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。 | その事を受けてか、夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。 | ||
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[[1984年]][[4月]]、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌[[月刊I/O]]に技術記事[[「MB-GAME DOS」]]を出稿し掲載される。以後、[[「知人情報管理」]]などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。またシャープのパソコンに詳しい学生だとメーカー営業所にも知られ、新製品展示会に顔を出す様になり、時には文化祭用の景品要請や貸出機協力を受けるなど、子供らしからぬ振る舞いを見せることもあった。 | [[1984年]][[4月]]、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌[[月刊I/O]]に技術記事[[「MB-GAME DOS」]]を出稿し掲載される。以後、[[「知人情報管理」]]などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。またシャープのパソコンに詳しい学生だとメーカー営業所にも知られ、新製品展示会に顔を出す様になり、時には文化祭用の景品要請や貸出機協力を受けるなど、子供らしからぬ振る舞いを見せることもあった。 | ||
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[[1985年]][[4月]]、電気通信法改正に伴い、全国で[https://ja.wikipedia.org/wiki/パソコン通信 パソコン通信]局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「[https://ja.wikipedia.org/wiki/コアラ_(企業) COARA]」が誕生した。 | [[1985年]][[4月]]、電気通信法改正に伴い、全国で[https://ja.wikipedia.org/wiki/パソコン通信 パソコン通信]局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「[https://ja.wikipedia.org/wiki/コアラ_(企業) COARA]」が誕生した。 | ||
遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。 | 遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。 | ||
| − | + | COARAで出会った人たちの多くが、雅治の後の人生に大きく影響し、現在でもその関係が続く人がいる。 | |
| − | + | 特に、雅治の現在の妻、佐和子は同会にて出会った人であり、現在でも同居交流が続いている。 | |
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| + | 職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職試験となり、父親の奨めで新日鐵大分製鉄所のコンピュータシステムを管理するシステム部門の子会社「大分ニックス株式会社」を希望し、高卒は受けつけない規定を曲げて面談を頼み込み、異例の就職を決めた。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 | ||
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| + | 高卒で新入社員で社会人1年生と言えども、16歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。 | ||
== 年譜 == | == 年譜 == | ||
2016年6月5日 (日) 03:18時点における版
山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 - )は、日本の創作家、営利企業代表者官僚。大分県大分。
生家は馬場家であるが、1998年4月5日の婚姻時に山﨑姓を使用する旨、婚姻届を提出した。
現在でも、IT業界では効率上、馬場姓を用いる事が多い。
一方、飲食業界では、山﨑姓を使っている。
来歴
福岡県北九州市門司区生まれ。馬場家の二人兄弟の次男。兄の馬場眞澄はアルメイダ病院の産婦人科部長である。
1968年12月、中耳炎を発症し、検査の際、腎炎・小児リュウマチが発見され、2年間、北九州市立市民病院にて入院生活をする。退院後、専業主夫の母親と共に自宅療養をする中、調理に興味を持った。 1973年3月、父親の転職に伴い、北九州市から大分市に移住。小学2年生新学期から大分市立明治小学校に転入し、大分市横尾の社宅住まいが始まったが、大分弁に困惑した。 その年、周囲からの誘いがあり、新聞配達を始めるが高校3年一杯まで欠かすこと無く続けた。 居住地の慣習で、小学生男子は全員が校区のソフトボールチームに所属させられ、年1回の大会に参加するが、チームプレイやスポーツが苦手な雅治は、この慣習に疑問を持っていた。 居住地周辺は、緑豊かで農地に囲まれた静かな場所であり、横尾貝塚や当時大分市長だった[佐藤益美氏]私邸も近所だった。
小学4年の頃、母親が療養のため北九州にて別居することになる。残された男3人生活では食事もまままらず、社宅併設の独身寮食堂で食事をする生活は、雅治の人生の中で食の創造についての空白期間となった。 馬場家の息子二人は、母の療養を受け止め、兄は「医者になってママを直す」、弟は「料理人になってママにおいしいものを食べさせる」と人生を誓った。それぞれ紆余曲折はあるものの、兄と弟は、医者と料理人になった。
小学5年のある日、男所帯に嫌気を感じ、一度、家の金をかき集め、放課後に北九州まで家出まがいの事をした。大分駅で特急ニチリンの切符を買い、ひとまず父方の実家(祖母宅)で資金を増やし、さらに遠方地へ逃走する予定だったが、孫の来訪に感激した祖母がうれしさのあまり、叔父に自慢の電話をした事から居場所を知られてしまい、逃走初日の深夜に計画失敗となった。
当時の担任の先生は、そんな言動を否定すること無く、特性を活かした学校生活を用意してくれた。 まだ時代的に、あきらかな知的障害に及ばない、多動やアスペルガー(高次脳機能障害)について学校側の知識も対応もなく、「きかん坊」「粗暴」「わがまま」とされていたのだが、担任は、雅治の特異性を見抜き、単独・集団のバランスを考慮してくれていた。例えば「クラス全員グループに分かれ作業をするが、馬場は一人教室に残ってイスの高さを調整しろ」と命じた。 もしくは、複雑な分類の作業について馬場が適任だと言った。雅治には感情論とは別に「世界観」が有ることを見抜いていた。 それゆえ家出まがいの事件も、何も言わなかった。
その事を受けてか、夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。 病状は改善は見られず、変わりがないならば大分に居ようと準備を始める。4人生活の再開に心躍らせた。 しかし、中学校入学の2日に食道静脈瘤破裂により急遺、帰らぬ人となる。
中学2年の時、父親が後妻を迎え、現在も父親・義母共に健在である。
1982年4月、中学3年の春、シャープマイコンMZ-80K2Eを購入しプログラミングに熱中する。BASICと呼ばれるプログラミング言語を習得し思い通りのシステムが作れるようになるが、それに飽き足らずZ80マシン語を習得し、16進数の羅列を諳んじてプログラムを作り出すなど、猟奇的とも言える才能を見せる。以後、機種依存のためシャープ製パソコンを買い換え続け、同好会「OITA X2」を結成し市中のパソコンショップに未成年者数名でたむろする「デジタル不良」となった。
1984年4月、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌月刊I/Oに技術記事「MB-GAME DOS」を出稿し掲載される。以後、「知人情報管理」などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。またシャープのパソコンに詳しい学生だとメーカー営業所にも知られ、新製品展示会に顔を出す様になり、時には文化祭用の景品要請や貸出機協力を受けるなど、子供らしからぬ振る舞いを見せることもあった。
1985年4月、電気通信法改正に伴い、全国でパソコン通信局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「COARA」が誕生した。
遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。
COARAで出会った人たちの多くが、雅治の後の人生に大きく影響し、現在でもその関係が続く人がいる。 特に、雅治の現在の妻、佐和子は同会にて出会った人であり、現在でも同居交流が続いている。
職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職試験となり、父親の奨めで新日鐵大分製鉄所のコンピュータシステムを管理するシステム部門の子会社「大分ニックス株式会社」を希望し、高卒は受けつけない規定を曲げて面談を頼み込み、異例の就職を決めた。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。
高卒で新入社員で社会人1年生と言えども、16歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。
年譜
- 1967年10月15日 - 福岡県北九州市にて出生
- 1973年3月 - 北九州市立柄杓田小学校入学
- 1974年4月 -大分市立明治小学校に転校
- 1980年3月 - 大分市立明治小学校卒業
- 1983年
- 3月 - 大分市立大東中学校卒業
- 4月 - 大分県立鶴崎工業高校電気科入学
- 1986年
- 3月 - 大分県立鶴崎工業高校電気科卒業
- 4月 - 大分ニックス株式会社入社
1988年9月、新日鐵情報通信システム株式会社退社。 1988年10月、株式会社アクシアム入社、取締役大分支店長に就任。 1989年12月、株式会社アクシアム 取締役辞任。 1989年12月、株式会社doクラフト設立、代表取締役に就任。
脚注
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