「山﨑雅治」の版間の差分

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*[[1988年]][[9月]]、[[新日鐵情報通信システム株式会社]]退社
 
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2016年6月5日 (日) 04:24時点における版


山﨑 雅治(やまさき まさはる、1967年10月15日 - )は、日本創作家営利企業代表者官僚大分県大分。 生家は馬場家であるが、1998年4月5日の婚姻時に山﨑姓を使用する旨、婚姻届を提出した。 現在でも、IT業界では効率上、馬場姓を用いる事が多い。 一方、飲食業界では、山﨑姓を使っている。

来歴

福岡県北九州市門司区生まれ。馬場家の二人兄弟の次男。兄の馬場眞澄はアルメイダ病院の産婦人科部長である。

1968年12月、中耳炎を発症し、検査の際、腎炎・小児リュウマチが発見され、2年間、北九州市立市民病院にて入院生活をする。退院後、専業主夫の母親と共に自宅療養をする中、調理に興味を持った。 1973年3月、父親の転職に伴い、北九州市から大分市に移住。小学2年生新学期から大分市立明治小学校に転入し、大分市横尾の社宅住まいが始まったが、大分弁に困惑した。 その年、周囲からの誘いがあり、新聞配達を始めるが高校3年一杯まで欠かすこと無く続けた。 居住地の慣習で、小学生男子は全員が校区のソフトボールチームに所属させられ、年1回の大会に参加するが、チームプレイやスポーツが苦手な雅治は、この慣習に疑問を持っていた。 居住地周辺は、緑豊かで農地に囲まれた静かな場所であり、横尾貝塚や当時大分市長だった[佐藤益美氏]私邸も近所だった。

小学4年の頃、母親が療養のため北九州にて別居することになる。残された男3人生活では食事もまままらず、社宅併設の独身寮食堂で食事をする生活は、雅治の人生の中で食の創造についての空白期間となった。 馬場家の息子二人は、母の療養を受け止め、兄は「医者になってママを直す」、弟は「料理人になってママにおいしいものを食べさせる」と人生を誓った。それぞれ紆余曲折はあるものの、兄と弟は、医者と料理人になった。

小学5年のある日、男所帯に嫌気を感じ、一度、家の金をかき集め、放課後に北九州まで家出まがいの事をした。大分駅で特急ニチリンの切符を買い、ひとまず父方の実家(祖母宅)で資金を増やし、さらに遠方地へ逃走する予定だったが、孫の来訪に感激した祖母がうれしさのあまり、叔父に自慢の電話をした事から居場所を知られてしまい、逃走初日の深夜に計画失敗となった。

当時の担任の先生は、そんな言動を否定すること無く、特性を活かした学校生活を用意してくれた。 まだ時代的に、あきらかな知的障害に及ばない、多動やアスペルガー(高次脳機能障害)について学校側の知識も対応もなく、「きかん坊」「粗暴」「わがまま」とされていたのだが、担任は、雅治の特異性を見抜き、単独・集団のバランスを考慮してくれていた。例えば「クラス全員グループに分かれ作業をするが、馬場は一人教室に残ってイスの高さを調整しろ」と命じた。 もしくは、複雑な分類の作業について馬場が適任だと言った。雅治には感情論とは別に「世界観」が有ることを見抜いていた。 それゆえ家出まがいの事件も、何も言わなかった。

その事を受けてか、夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。 病状は改善は見られず、変わりがないならば大分に居ようと準備を始める。4人生活の再開に心躍らせた。 しかし、中学校入学の2日に食道静脈瘤破裂により急遺、帰らぬ人となる。

中学2年の時、父親が後妻を迎え、現在も父親・義母共に健在である。

1982年4月、中学3年の春、シャープマイコンMZ-80K2Eを購入しプログラミングに熱中する。BASICと呼ばれるプログラミング言語を習得し思い通りのシステムが作れるようになるが、それに飽き足らずZ80マシン語を習得し、16進数の羅列を諳んじてプログラムを作り出すなど、猟奇的とも言える才能を見せる。以後、機種依存のためシャープ製パソコンを買い換え続け、同好会「OITA X2」を結成し市中のパソコンショップに未成年者数名でたむろする「デジタル不良」となった。

1984年4月、パソコン知識は私用に留まらず、パソコン雑誌月刊I/Oに技術記事「MB-GAME DOS」を出稿し掲載される。以後、「知人情報管理」などの実用ソフトウェアを発表する。高校生の頃は、新聞配達の収入と合わせ原稿料収入があった。またシャープのパソコンに詳しい学生だとメーカー営業所にも知られ、新製品展示会に顔を出す様になり、時には文化祭用の景品要請や貸出機協力を受けるなど、子供らしからぬ振る舞いを見せることもあった。


1985年4月、電気通信法改正に伴い、全国でパソコン通信局が開局され、雑誌社の依頼で通信装置を借り受け、記事の執筆に取り組んだが、大分<=>東京間の電話料金負担に根を上げて中止する。同年5月に大分市にも地場若手経営者の手でパソコン通信局「COARA」が誕生した。 遠方との通信費に疲弊していた雅治は、COARAの門を叩き、会合に参加したが、場違いである事を察知して、逆にフルパワーで発信し続けた。それらの経緯をCOARA創立者の一人が「電子の国のCOARA」に記してある。

COARAで出会った人たちの多くが、雅治の後の人生に大きく影響し、現在でもその関係が続く人がいる。 特に、雅治の現在の妻、佐和子は同会にて出会った人であり、現在でも同居交流が続いている。

職業系の高校だったため、高校3年の10月は就職試験となり、父親の奨めで新日鐵大分製鉄所のコンピュータシステムを管理するシステム部門の子会社「日鐵コンピュータシステム株式会社」を希望し、高卒は受けつけない規定を曲げて面談を頼み込み、異例の就職を決めた。高校では就職先が決まった者から自動車学校に通うのが慣習だった。このとき友人達の間で「我はBMWがいい」と言っていた。一足先に通学始めた者から「馬場の担当の教官が決まった」と告げられ、入校を決めてもないのに何故決まるのか?調べた所、自動車学校間で生徒の取り合いの末、先行する生徒から紹介料提示による動きがあったと判明し自動車学校に不信感を抱く。一方、通学費用について両親に具申したところ、ちょっとした冗談で「出さない」と言われ、それを真に受けて「じゃあ行かない」と宣言し、自力で運転免許試験場に通い、13回の不合格の末、14回目に総額3万円を切る費用で免許を取得した。


1986年4月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 高卒で新入社員で社会人1年生と言えども、16歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。

研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。 時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「UNIX」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。

仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。 部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに19歳でBMWを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にてソアラ2000GT-TWINTURBOを入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。

1988年4月、新日鐵グループの再編があり、社名と勤務地が変更になった。勤務地が大分製鉄所から大分市春日町ソフトパークになったため通勤負担が大きくなる。それと同時に社内の体制もかわってしまいモチベーションが低下した。その頃、COARAで知り合った東京のシステム会社との御縁で映像音響制御のシステムに興味をもった。次の会社「株式会社アクシアム」を見学して転職を決断した。父親の御縁を辿って入社した新日鐵の退職に際し、いくつかの感情論が壁となって立ちはだかったがそれを受け入れること無く、辞表を提出した。

1988年9月、新たな生活をするために、ソウルオリンピックの開会式を大分空港で見て、飛び立った。 東京では、セブンイレブン1号店の近く(豊洲)に住み、株式会社アクシアムの事業所は新富町だった。 初めての東京暮らしに浮かれ、銀座を隅々まで歩き回った。 同月下旬、研修でグアムに初海外旅行に行き、自分用にTISSOTの腕時計を買う。いまでも使っている。 仕事は、電通関連会社が担当する音響映像制御の実行部隊であり、博物館・博覧会・コンサートなどで使われる機器の制御や画面作りが任務である。当時は博覧会ブームで全国でパビリオン建設があったが、広島海と島の博覧会では現地滞在して機器を製作した。 現存する施設では、横浜桜木町「横浜マリタイムミュージアム」の映像展示やジオラマ制御を担当した。

アクシアムの事業拡大のため、東京と別に、大分に支店を設置する事となり、その支店長に就任する。 特に、広島博覧会の際は、大分<=>広島間にコミュータ機が就航しており行き来の利便性もあって大分支店の任務となった。 しかし、大分支店開設後、思うように映像制御の受注は伸びず、事務系システムへの転換を図った。 雅治の行動は、COARAを通じて会員間の知るところであったため、事務系システムの発注を検討してくれる事業所が名乗りを上げてくれた。代表的なシステムは「不動産鑑定書作成支援システム」である。 当時、LANなどがなかった時代に、ホストコンピュータと複数台の端末機が連携するシステムを、中小企業で導入することはコスト的に難しかった時代に、それを実現した事は大きかった。 業績が伸びるにつれ、増員が進んだが、受注の回転タイミングにズレが生じ、大分支店は行き詰まる。

1989年12月、アクシアム大分支店を雅治が引き継ぐ形で東京本社と分離し、自己所有のソアラを売却した資金で「株式会社doクラフト」を設立した。第一号業務として、マリーンパレス高松史郎館長との御縁から映像展示を受注する。 また、雅治の理解者である後藤国俊氏より「選挙人関連網システム」の発注を受け、同氏の市長選に効果を見せた。


年譜

脚注

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外部リンク