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		<title>大分絵巻wiki - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-04-05T21:44:54Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>山﨑雅治</title>
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				<updated>2025-12-08T03:57:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [https://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院 - 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=656</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=656"/>
				<updated>2025-12-08T03:57:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=655</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=655"/>
				<updated>2025-12-08T03:42:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [https://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院 - 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=654</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=654"/>
				<updated>2025-12-08T03:39:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[http://www.okawa-hosp.com 大川産婦人病院副院長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [https://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [https://jikei-hp.or.jp/ 医療法人聖粒会慈恵病院 - 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=653</id>
		<title>メインページ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&amp;diff=653"/>
				<updated>2025-12-08T03:35:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* はじめましょう */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;strong&amp;gt;大分歴史データベース「大分絵巻ｗｉｋｉ」へようこそ！&amp;lt;/strong&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== はじめましょう ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注目！ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[山﨑雅治]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=652</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=652"/>
				<updated>2020-11-22T19:33:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[http://www.okawa-hosp.com 大川産婦人病院副院長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.okawa-hosp.com/ 医療法人大川産婦人科病院 - 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=651</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=651"/>
				<updated>2020-11-22T19:31:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.okawa-hosp.com/ 医療法人大川産婦人科病院 - 公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=650</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=650"/>
				<updated>2020-11-22T19:31:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.okawa-hosp.com/ 医療法人大川産婦人科病院 - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%85%A5%E9%99%A2&amp;diff=649</id>
		<title>長期入院</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%85%A5%E9%99%A2&amp;diff=649"/>
				<updated>2017-01-19T17:42:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[1968年]][[12月]]&lt;br /&gt;
[[幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中耳炎を発症し、検査の際、腎炎・小児リュウマチが発見され、２年間、北九州市立市民病院にて入院生活をする。退院後、専業主婦の母親と共に自宅療養をする中、調理に興味を持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:馬場雅治]]&lt;br /&gt;
[[Category:長期入院]]&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%EF%BC%A4%EF%BD%8F%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88&amp;diff=648</id>
		<title>Ｄｏクラフト</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%EF%BC%A4%EF%BD%8F%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88&amp;diff=648"/>
				<updated>2016-09-27T05:20:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1989年]][[12月]][[25日]]&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト設立&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
株式会社ｄｏクラフト（ドゥクラフト）は、1989年12月25日に、大分地方法務局に登記申請された株式会社である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表取締役である馬場雅治他、２名の株主より出資を受け、代表者である馬場雅治が同年１１月まで任務していた、株式会社アクシアム大分支店の業務を引き継ぐ形で起業された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1989年12月、アクシアム大分支店を雅治が引き継ぐ形で東京本社と分離し、自己所有のソアラを売却した資金を出資金として供した。&lt;br /&gt;
第一号業務として、マリーンパレス高松史郎氏との御縁から映像展示を受注する。&lt;br /&gt;
また、雅治の理解者である後藤國利氏より「選挙人関連網システム」の発注を受け、同氏の市長選に効果を見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治が高校生の時に入会しＣＯＡＲＡの活動で出会った方々は、ｄｏクラフトの行く末を気にかけ、折に触れ仕事や関係先の紹介を提供し、表裏で支えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、業務を停止している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追記&lt;br /&gt;
２０１５年１月２０日　法務局の職権により解散&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:設立]]&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:どぅくらふと}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=647</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=647"/>
				<updated>2016-09-27T05:16:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 生い立ち */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日前に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=NEWAGEARTCUT&amp;diff=646</id>
		<title>NEWAGEARTCUT</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=NEWAGEARTCUT&amp;diff=646"/>
				<updated>2016-09-08T08:15:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1994年]][[12月]][[22日]][[00:00:00]]&lt;br /&gt;
NEWAGEARTCUT放送開始&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大分ケーブルテレビ]]に、映像システム技術の開発・提供を行っていた、（株）[[ｄｏクラフト]][[馬場雅治]]が、制作責任者である大島三平氏の勧めで、独自制作の番組枠を借り受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場は、自身の会社のＰＲに役立つと考えパソコン番組を計画したが、視聴者の立場に立って再考し、原題美術作家を追いかける「ドキュメンタリー番組」を創案した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、現代美術の分野にコネクションも無いため、旧来の知人らを辿り、美大に進学する学生に指導をする「大分美術研究所」の二宮圭一氏を訪ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]夏、大分市内にＣＡＴＶの普及が進み、その中核は大分ケーブルテレビが担っていた。同社の制作部長、大島三平氏から、独自番組制作の可能性を提示され、ドキュメンタリー番組を計画する。取材対象は、現代美術作家の活動と定め、そのコネクションに於いて大分では第一人者と言われる二宮圭一氏とチームを組むこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]秋、当時のＴＶ放送に耐えうるビデオカメラや編集設備を整えると１０００万円近くかかるのだが、対比費用効果を逆視点に、ようやく導入が始まったノンリニア編集で番組作りを行う決断をする。SONY VX-1とパソコン編集システムだけをそろえた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]]11月、第１回目の放送を目前に控え、福岡県福岡市で展開されていた「ミュージアムシティー福岡」へ二宮圭一氏と赴いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1994年]][[11月21日]]、試験放送ではあったが、２４時から３０分間、新番組「[[NEWAGEARTCUT]]」の放送が開始した。以後、２０００年３月２６日まで、毎週１本づつ、計２４６本の番組を放送し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+ 放送回一覧&lt;br /&gt;
! 回 !! 出演 !! 放送日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1 || ミュージアムシティー天神（福岡市） || 1994年11月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 2 || 伊藤　昭博　コンテンポラリーアートの冒険 || 1994年11月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 3 || 山出　淳也　ＶＡＲＩＯＳ150三菱地所主催　博多ＩＭＳ　 || 1994年12月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 4 || ウィーンレポート　二宮圭一の現地美術館レポート || 1994年12月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 5 || 中川　恵理　コンテンポラリーアートの冒険 || 1994年12月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 6 || 阿部　浩二　フランスの展覧会参加の紹介 || 1994年12月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 7 || 解放運動（大分美術研究所）　ブルーノパラメント || 1995年1月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 8 || 古庄　優子　ＨＯＭＥ展 || 1995年1月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 9 || 岡山　直之　個展　その他 || 1995年1月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 10 || 阿部浩二　ヨハネスブルグビエンナーレ参加壮行会 || 1995年1月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 11 || 過去の作品の総集編 || 1995年2月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 12 || 宮本　初音ホワイトヘッドＮｏ１ || 1995年2月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 13 || 宮川　敬一ホワイトヘッドＮｏ２ || 1995年2月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 14 || 仰木　香苗Ｂａｔｈ || 1995年2月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 15 || 牛嶋　均　Ｃａｆｅ || 1995年3月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 16 || ヨハネスブルグビエンナーレ　現地レポートＮｏ１ || 1995年3月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 17 || ヨハネスブルグビエンナーレ　現地レポートＮｏ２ || 1995年3月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 18 || 金森　光明・嶋　浩子　水道人 || 1995年3月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 19 || ヨハネスブルグビエンナーレ　阿部浩二　帰国報告会 || 1995年4月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 20 || 吉良　有美 || 1995年4月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 21 || 山野　真悟ミュージアムシティー天神事務局長 || 1995年4月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 22 || 中国現代美術展［非常口］ || 1995年4月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 23 || 木村　秀和・岡山　直之２人展　１１日間 || 1995年5月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 24 || 捧　公志朗 || 1995年5月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 25 || 伊藤　昭博 || 1995年5月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 26 || 坂崎　隆一 || 1995年5月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 27 || 草野　貴世 || 1995年5月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 28 || 千草ホテル（北九州市）小嶋社長 || 1995年6月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 29 || 山出　淳也（ビデオ作品集） || 1995年6月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 30 || １４展（大分美術研究所） || 1995年6月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 31 || ＳＵＩＫＡ || 1995年6月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 32 || 越南からの風 || 1995年7月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 33 || 牛嶋　均 || 1995年7月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 34 || 野の仕事　岡山・田植え作業 || 1995年7月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 35 || 園田　ゆかり || 1995年7月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 36 || 島原グランドホテル || 1995年7月31日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 37 || 現代美術講座＃１美術史開拓派 || 1995年8月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 38 || ＡＲＴＷＡＶＥ’９５　豊府高校 || 1995年8月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 39 || 伊藤　史 || 1995年8月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 40 || ＣＡＳＫレポート＃１　岩佐　徹也 || 1995年8月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 41 || 現代美術講座＃４外面世界派 || 1995年9月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 42 || ＣＡＳＫレポート＃２　岡山　直之 || 1995年9月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 43 || ＣＡＣＯＳｈｏｗ告知　大分現代美術会議紹介 || 1995年9月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 44 || チェンマイ・バングラディッシュ出発報告　山出　淳也 || 1995年9月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 45 || 佐藤　寛子 || 1995年10月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 46 || ＡＲＴ　ＷＯＲＫ　９５ || 1995年10月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 47 || さいとう　のぶたか || 1995年10月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 48 || ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃１　中川　惠理展 || 1995年10月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 49 || 野の仕事　岡山直之　ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃１レポート || 1995年10月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 50 || ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃１／２，ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃２予告 || 1995年11月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 51 || ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃２　古庄　優子展 || 1995年11月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 52 || ＲＥＡＬ　ＬＯＵＮＧＥ || 1995年11月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 53 || 首藤　英之 || 1995年11月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 54 || ＣＡＣＯ　ＳＨＯＷ＃３　阿部　浩二展 || 1995年12月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 55 || キムラヤ画材店　木村　成敏 || 1995年12月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 56 || インターネットホームページ＆野の仕事完結編 || 1995年12月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 57 || ＣＡＣＯＳｈｏｗ＃４　山出　淳也展 || 1995年12月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 58 || バングラディシュビエンナーレ報告会 || 1996年1月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 59 || 久保　貴史 || 1996年1月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 60 || 鈴木　陽子 || 1996年1月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 61 || 出光　哲也 || 1996年1月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 62 || ＣＡＣＯＳｈｏｗ　記録展 || 1996年2月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 63 || 伊藤　史 || 1996年2月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 64 || 現代美術絵画展（別府市美術館）特別コラム：絵画展運営に付いて || 1996年2月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 65 || ＣＡＣＯＳｈｏｗ　図録出版記念パーティー || 1996年2月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 66 || カラー図録紹介芙蓉倶楽部 || 1996年3月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 67 || 二宮圭一展（大分フォーラス） || 1996年3月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 68 || 湯布院卒業パーティー（吉川） || 1996年3月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 69 || 永松　千春 || 1996年3月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 70 || 大庭　和徳 || 1996年4月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 71 || 徳丸　理子 || 1996年4月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 72 || みらい信用金庫（山出淳也） || 1996年4月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 73 || 渡辺　明男 || 1996年4月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 74 || ピクニック（準備編：藤田　洋平） || 1996年4月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 75 || ピクニック　総括編 || 1996年5月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 76 || 下川　啓二（イラストレーター） || 1996年5月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 77 || 春展（日本文理大学） || 1996年5月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 78 || ＩＡＦ特別講座（二宮圭一） || 1996年5月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 79 || みらい信用金庫ツアー（山出淳也展） || 1996年6月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 80 || 明和電機 || 1996年6月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 81 || 川俣　正（ＩＡＦ講座） || 1996年6月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 82 || 吉良　由美（空想の森） || 1996年6月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 83 || 野の仕事９６（田植え編） || 1996年7月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 84 || 諏訪　真理子個展 || 1996年7月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 85 || パラサイト軍団 || 1996年7月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 86 || 首藤　英之（プランの紹介） || 1996年7月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 87 || 脇水　浩嗣（ｄｏクラフトＣＭ制作について） || 1996年7月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 88 || 小国町アーティストキャンプ９６山出淳也出発式 || 1996年8月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 89 || 波田野　雄治写真展 || 1996年8月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 90 || アンディーウォーホル展（福岡） || 1996年8月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 91 || 祐成　正徳 || 1996年8月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 92 || 母里　聖徳　前編（鉄鋼彫刻シンポジュウムのきっかけ）　 || 1996年9月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 93 || 母里　聖徳　後編 || 1996年9月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 94 || 安部　泰輔（まんがについて） || 1996年9月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 95 || 和田千秋　前編（障害の美術） || 1996年9月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 96 || 和田千秋　後編 || 1996年9月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 97 || コンテンポラリーアートの冒険　Ｖｏｌ．８ || 1996年10月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 98 || ミュージアムシティー天神９６ || 1996年10月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 99 || 光と風の教会 || 1996年10月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 100 || １００回記念　メイキング　ｏｆ　ＮＥＷＡＧＥ || 1996年10月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 101 || ダニエル・ビラン展 || 1996年11月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 102 || 山出　淳也（Ｂコンプラザ信金組合） || 1996年11月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 103 || コーヒーの日（喫茶　ばんぢろ） || 1996年11月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 104 || ＡＲＣＵＳ（茨城アーティストレジデンス） || 1996年11月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 105 || コールマイン田川 || 1996年12月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 106 || 宮島　達男 || 1996年12月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 107 || スタン・アンダーソン || 1996年12月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 108 || 久保　貴史 || 1996年12月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 109 || サトウ　アキ（創作舞踏） || 1997年1月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 110 || 秋満　亘　・　阿部　光 || 1997年1月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 111 || 八幡アートプロジェクト || 1997年1月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 112 || Ｒ・ブルー（音楽） || 1997年2月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 113 || 別府現代絵画展（別府市美術館） || 1997年2月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 114 || 古野　陽子 || 1997年2月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 115 || 三重　真理子 || 1997年2月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 116 || 小野　恵 || 1997年3月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 117 || 柿の木プロジェクト || 1997年3月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 118 || めぶき園 || 1997年3月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 119 || 上田　賢次（バリアフリーコンサート） || 1997年3月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 120 || 湯布院卒業コンサート・二宮圭一：風船上げ || 1997年3月31日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 121 || 三河　祐子 || 1997年4月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 122 || 黒岳アートプロジェクト || 1997年4月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 123 || 藤原　雅哉 || 1997年4月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 124 || 岡山直之　北九州修行壮行会 || 1997年4月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 125 || 伊藤　昭博　個展　（福岡） || 1997年5月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 126 || 井上　俊子（ぴかの家から） || 1997年5月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 127 || 高見　剛（湯布院空想の森） || 1997年5月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 128 || 百瀬　俊哉 || 1997年5月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 129 || 松陰　浩之（ギャラリーＳＯＡＰ） || 1997年6月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 130 || 阿部　浩二（フランス出発前） || 1997年6月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 131 || 藤　浩志　前編 || 1997年6月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 132 || 藤　浩志　後編 || 1997年6月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 133 || 恵良　康子 || 1997年6月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 134 || 「場合」（阿部　浩二）（ギャラリーＳＯＡＰ） || 1997年7月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 135 || 香港返還ツアーレポート（馬場雅治） || 1997年7月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 136 || ジョン・ミラー || 1997年7月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 137 || 現代美術の一様相（大分県立芸術会館） || 1997年7月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 138 || 風倉　匠 || 1997年8月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 139 || 佐藤　俊造 || 1997年8月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 140 || 井上　一（４人と４匹：写真家） || 1997年8月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 141 || 阿部浩二　フランスレポート || 1997年8月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 142 || マリノマリーニ展（大分県立芸術会館） || 1997年9月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 143 || ハルモニの絵画展 || 1997年9月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 144 || 安東　章二（ギャラリーＳＯＡＰ） || 1997年9月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 145 || 吉賀　宣博 || 1997年9月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 146 || コンテンポラリーアートの冒険９７　Ｖｏｌ．９ || 1997年9月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 147 || 不易流行（中国現代美術） || 1997年10月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 148 || 川島　啓司 || 1997年10月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 149 || セカンドプラネット展（ギャラリーＳＯＡＰ） || 1997年10月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 150 || アーティストキャンプｉｎあそ（小国町） || 1997年10月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 151 || マンドラゴラの実（田川市美術館） || 1997年11月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 152 || お座敷アートセッション（田川市　料亭あをぎり） || 1997年11月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 153 || 「コーヒーの日」喫茶　ばんぢろ || 1997年11月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 154 || 大分美術研究所１１周年記念パーティー || 1997年11月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 155 || ＮＥＷＡＧＥビデオオンデマンド化 || 1997年12月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 156 || 吉祥じゅん＆ワルキューレ（劇団） || 1997年12月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 157 || 浅野　徳三（彫刻） || 1997年12月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 158 || １９９７年　総集編 || 1997年12月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 159 || 淡居　誠（商業カメラマン） || 1998年1月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 160 || 山出　淳也 || 1998年1月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 161 || スピーク・マイ・ランゲージ || 1998年1月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 162 || 田能村　竹田　展 || 1998年1月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 163 || 藤　浩　（大分　街のアート） || 1998年2月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 164 || 大分市アートプラザ || 1998年2月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 165 || 宮島　達男 || 1998年2月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 166 || 島岡　成治（建築工学） || 1998年2月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 167 || 岩佐　まゆみ || 1998年3月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 168 || 諏訪　真理子 || 1998年3月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 169 || 中島　敏晴 || 1998年3月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 170 || 赤瀬川　原平 || 1998年3月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 171 || ＧＥＡＲ（アーティストブック出版） || 1998年3月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 172 || 風倉　匠　（パフォーマンス） || 1998年4月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 173 || スピラン・一般公開 || 1998年4月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 174 || 山出　淳也（東京都現代美術館　プラン） || 1998年4月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 175 || やまばと幼稚園２５周年 || 1998年4月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 176 || 竹内　康則（商業カメラマン：　前編） || 1998年5月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 177 || 竹内　康則（後編） || 1998年5月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 178 || 常木　新二 || 1998年5月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 179 || マーサ・ジョハンソン（陶芸） || 1998年5月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 180 || 久間　章江 || 1998年6月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 181 || 久間　清喜 || 1998年6月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 182 || ＧＥＡＲ２・３発刊記念 || 1998年6月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 183 || 阿部浩二 || 1998年6月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 184 || 山出　淳也（アートプラザ準備風景）山出　淳也 || 1998年6月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 185 || 三浦　靖史 || 1998年7月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 186 || 別府大学　短期部　初等教育 || 1998年7月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 187 || 山出　淳也　展（アートプラザ） || 1998年7月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 188 || 人体の不思議展 || 1998年7月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 189 || ヤノベ　ケンジ（アルティアム個展） || 1998年8月3日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 190 || アートティストレジデンス小国９８ || 1998年8月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 191 || 安部　泰介（ＩＭＳ展覧会について） || 1998年8月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 192 || ベイサイドルネッサンス９８ || 1998年8月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 193 || 首藤　英之 || 1998年8月31日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 194 || 泊　ジロー || 1998年9月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 195 || 福谷　英明 || 1998年9月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 196 || 石田　富也 || 1998年9月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 197 || ＴＯＹＳ　ＣＬＵＢ　覇王伝説 || 1998年9月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 198 || ミュージアムシティＦＵＫＵＯＫＡ９８ || 1998年10月5日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 199 || 島袋　道浩 || 1998年10月12日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 200 || 吉村　壮明（教育と美術） || 1998年10月19日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 201 || ＷＯ４（フォーラス・オオイタ・アニュアルＶｏｌ１） || 1998年10月26日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 202 || 津久見高校（フォーラス・オオイタ・アニュアルＶｏｌ１） || 1998年11月2日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 203 || 森　燐 || 1998年11月9日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 204 || 金池小学校（現代美術と教育） || 1998年11月16日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 205 || 泊ジロー展覧会終了パーティー || 1998年11月23日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 206 || 藤野　智久 || 1998年11月30日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 207 || 藤野　渉 || 1998年12月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 208 || コンテンポラリーアートの冒険Ｖｏｌ１０ || 1998年12月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 209 || ９８年総集編　上半期 || 1998年12月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 210 || ９８年総集編　下半期 || 1999年1月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 211 || 安部　文範　前編 || 1999年1月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 212 || 安部　文範　後編 || 1999年1月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 213 || のぎた千種 || 1999年1月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 214 || 別府現代絵画展９９ || 1999年2月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 215 || 阿部　直昭 || 1999年2月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 216 || 阿部　平臣 || 1999年2月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 217 || 秋満　亘 || 1999年2月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 218 || 風倉　匠 || 1999年3月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 219 || 阿部　浩二　フランスレポート || 1999年3月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 220 || 泊ジロー　桜植樹祭 || 1999年3月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 221 || 馬場　雅治 || 1999年3月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 222 || 公開収録（最終回） || 1999年3月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| プロジェクトデジグラムに番組変更 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 223 || アーティストレジデンスｉｎ阿蘇９９〔小国町） || 1999年10月4日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 224 || 木村　秀和 || 1999年10月11日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 225 || ＡＲＴ・ＴＩＭＥ || 1999年10月18日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 226 || 安部　泰輔：個展（騒ぐ夜）ＩＭＳアルティアム || 1999年10月25日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 227 || オオイタアニュアルＶｏｌ．２ || 1999年11月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 228 || アートギャング９９（田川市） || 1999年11月8日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 229 || 二宮　圭一：個展（村、出現）オアシス広場２１ || 1999年11月15日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 230 || 古庄　温子・上原　葉子（ＬＡＲＩ　ＣＡＦＥ） || 1999年11月22日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 231 || 山崎　芳直（アートプラザ） || 1999年11月29日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 232 || 牧尾　和義（板金彫刻） || 1999年12月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 233 || 永野　留美（個展：アートプラザ） || 1999年12月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 234 || ＯＫ（安部　泰輔・首藤　英之）ギャラリーＳＯＡＰ || 1999年12月20日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 235 || 後藤　千香子（版画） || 1999年12月27日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 236 || 河原畑　領介（陶芸） || 2000年1月10日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 237 || 山出　淳也（９９活動報告） || 2000年1月17日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 238 || 別府現代絵画展 || 2000年1月24日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 239 || 島田　重樹（ソムリエ） || 2000年1月31日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 240 || 藤井　知美（切り絵） || 2000年2月7日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 241 || 吉村　益信（前編） || 2000年2月14日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 242 || 吉村　益信（後編） || 2000年2月21日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 243 || 野口　里佳（写真家） || 2000年2月28日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 244 || 高見　英之（空想の森美術館　学芸員） || 2000年3月6日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 245 || 木村　文香（絵画） || 2000年3月13日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 246 || 最終回 || 2000年3月20日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/NEWAGEARTCUT/youtube.html NEWAGEARTCUT放送回リスト]&lt;br /&gt;
* [http://www.oct-net.ne.jp 大分ケーブルテレコム株式会社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:NEWAGEARTCUT]]&lt;br /&gt;
[[Category:現代美術]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドキュメンタリー]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ番組]]&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:にゅーえいじあーとかっと}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=645</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=645"/>
				<updated>2016-08-13T16:14:56Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 共同出資による起業・三巡目モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に飢えた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=644</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=644"/>
				<updated>2016-08-13T16:13:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 企業グループの再編・二巡目モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（文部省）&lt;br /&gt;
*生活習慣病データベース（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=643</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=643"/>
				<updated>2016-08-13T16:07:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1991年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Soarer2000.png&amp;diff=642</id>
		<title>ファイル:Soarer2000.png</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Soarer2000.png&amp;diff=642"/>
				<updated>2016-06-14T02:53:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>ソアラ2000GT-TWIN TURBO</title>
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				<updated>2016-06-14T02:53:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Soarer2000.png|{center}]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>ソアラ2000GT-TWIN TURBO</title>
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				<updated>2016-06-14T02:52:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Soarer2000.png|{center}]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>ソアラ2000GT-TWIN TURBO</title>
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				<updated>2016-06-14T02:52:39Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Soarer2000.png|center]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%A92000GT-TWIN_TURBO&amp;diff=638</id>
		<title>ソアラ2000GT-TWIN TURBO</title>
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				<updated>2016-06-14T02:52:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: ページの作成:「[[Soarer2000.png]|center]」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Soarer2000.png]|center]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%A5%E7%A4%BE&amp;diff=637</id>
		<title>サラリーマン入社</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%A5%E7%A4%BE&amp;diff=637"/>
				<updated>2016-06-14T02:51:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1986年]][[4月]]&lt;br /&gt;
[[日鐵コンピュータシステム株式会社]]入社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 高卒で新入社員で社会人１年生と言えども、１６歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。部署の性質上、システマチックな能力に長けた人物が集められており、当時２人の天才がいると言われた。雅治ともうひとりは[[株式会社ザイナス]]の江藤稔明社長である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「ＵＮＩＸ」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。 部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに１９歳でＢＭＷを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にて[[ソアラ2000GT-TWIN TURBO]]を入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%A5%E7%A4%BE&amp;diff=636</id>
		<title>サラリーマン入社</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%A5%E7%A4%BE&amp;diff=636"/>
				<updated>2016-06-14T02:50:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1986年]][[4月]]&lt;br /&gt;
[[日鐵コンピュータシステム株式会社]]入社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 高卒で新入社員で社会人１年生と言えども、１６歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。部署の性質上、システマチックな能力に長けた人物が集められており、当時２人の天才がいると言われた。雅治ともうひとりは[[株式会社ザイナス]]の江藤稔明社長である。&lt;br /&gt;
 時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「ＵＮＩＸ」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。 部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに１９歳でＢＭＷを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にて[[ソアラ2000GT-TWIN TURBO]]を入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=635</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=635"/>
				<updated>2016-06-14T02:49:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 飲食業 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「[[カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ]]」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=634</id>
		<title>大事故</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=634"/>
				<updated>2016-06-14T02:48:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:BMW525is.jpg|{frame}|center]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

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		<title>大事故</title>
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				<updated>2016-06-14T02:48:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:BMW525is.jpg|{border}|center]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:BMW525is.jpg|{border}]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
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[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:BMW525is.jpg|border]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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				<updated>2016-06-14T02:47:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

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		<title>山﨑雅治</title>
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				<updated>2016-06-12T17:12:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 私生活 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんから親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その同じ歳の女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法&amp;lt;ref&amp;gt;「ID90」従業員配偶者は90%offで購入できる&amp;lt;/ref&amp;gt;があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=628</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=628"/>
				<updated>2016-06-12T17:09:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 人生の転換期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈め、大きく人生の転換を乗り切る覚悟だったが、同社からの離脱によって人生再編の計画は宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=627</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=627"/>
				<updated>2016-06-12T17:07:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このスナックに出入りの旅行代理店関係者から、募集が定員に満たない事から、ハワイ往復５万円を聞き、ハワイへ旅行する。&lt;br /&gt;
ハワイでも、記念に腕時計を求め、Cartier Santosと出会う。　現在でも愛用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=626</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=626"/>
				<updated>2016-06-12T17:02:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 企業グループの再編・二巡目モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
*再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=625</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=625"/>
				<updated>2016-06-12T17:01:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* ｄｏクラフト第３期・下請け会社として */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&amp;lt;ref&amp;gt;のち、アンクルアンティークと改称する。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=624</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=624"/>
				<updated>2016-06-12T17:01:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブ・ジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BMW525is.jpg&amp;diff=623</id>
		<title>ファイル:BMW525is.jpg</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BMW525is.jpg&amp;diff=623"/>
				<updated>2016-06-12T16:59:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=622</id>
		<title>大事故</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=622"/>
				<updated>2016-06-12T16:58:23Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:BMW525is.jpg]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=621</id>
		<title>大事故</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=621"/>
				<updated>2016-06-12T16:57:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ファイル:BMW525is.jpg}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E6%95%85&amp;diff=620</id>
		<title>大事故</title>
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				<updated>2016-06-12T16:57:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1990年]][[3月]][[9日]][[01:00:00]]&lt;br /&gt;
[[生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファイル:BMW525is.jpg&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、社長業を武装するためにＢＭＷ５２５ｉを購入する。生来ゆるい表情の雅治であるが、それが災いして社長の名刺を差し出すと失笑を買うことが多かったが、使用する車の格によって先方の態度は一変した。大分県内の仕事先では反感もあったが、福岡辺りの取引先、もしくは東京より視察に訪れたクライアントの送迎では効果があった。 1991年３月８日、東京での打ち合わせのため、スタッフと共に新宿で仕事をし、２０時大分空港着で帰社した。当時、臼杵市在住のクライアント社屋で２４時間体制のシステム管理を行っていたため、空港から臼杵市に移動する。日付が変わり、翌３月９日午前１時過ぎに臼杵市を出発し大分市内に戻る。臼杵有料道路を経て、大分県立東高等学校のグランウンドにそったカーブで、ハンドル操作を誤り、電柱に衝突する大事故を起こす。雅治は頭蓋骨亀裂の重傷を負い、奇跡的に通りがかった方の救急通報で、大分仲村病院に搬送された。２０時間ほど昏睡状態を経て３月１０日目を覚ました。破損した車両の状態から死亡事故を思わせたが、奇跡的に外傷もなく、頭皮下の多量血腫を吸引した傷以外は外科治療もなかった。２週間の入院を経て退院した。なお退院後、すぐに事故全損した同じ車種を購入し、２台分の支払いをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E8%BB%A2%E8%81%B7&amp;diff=618</id>
		<title>転職</title>
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				<updated>2016-06-12T16:52:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1988年]][[9月]]&lt;br /&gt;
株式会社アクシアムに転職&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、新たな生活をするために、ソウルオリンピックの開会式を大分空港で見て、飛び立った。&lt;br /&gt;
東京では、セブンイレブン１号店の近く（豊洲）に住み、株式会社アクシアムの事業所は新富町だった。&lt;br /&gt;
初めての東京暮らしに浮かれ、銀座を隅々まで歩き回った。&lt;br /&gt;
同月下旬、研修でグアムに初海外旅行に行き、自分用にTISSOTの腕時計を買う。いまでも使っている。&lt;br /&gt;
仕事は、電通関連会社が担当する音響映像制御の実行部隊であり、博物館・博覧会・コンサートなどで使われる機器の制御や画面作りが任務である。当時は博覧会ブームで全国でパビリオン建設があったが、広島海と島の博覧会では現地滞在して機器を製作した。&lt;br /&gt;
現存する施設では、横浜桜木町「横浜マリタイムミュージアム」の映像展示やジオラマ制御を担当した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%85%A5%E7%A4%BE&amp;diff=617</id>
		<title>サラリーマン入社</title>
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				<updated>2016-06-12T16:50:41Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1986年]][[4月]]&lt;br /&gt;
[[日鐵コンピュータシステム株式会社]]入社]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、社会人生活が始まる。同社新入男子は集団研修があるのだが、高卒の雅治は女子社員扱いとして大分製鉄所女子社員と合同の中、男子一人で女性研修に参加した。ワープロ研修などは教えてもらうまでもなく、講師先輩社員には扱いにくい新人だと思われていたようだ。 高卒で新入社員で社会人１年生と言えども、１６歳から原稿を書いて収入を得てるプロであり、他の同期社員がどういう人であれ物怖じすること無く、やや上から目線で接していたようだ。特にコンピュータシステムの基礎は完璧に出来上がっており、業務システムを前にしてもなんら驚異は感じない。幸いな事に同期の仲間達は、その実力を認めると同時に、生意気な弟のように接してくれて、雅治の高次脳機能の課題によるコミュニケーション障害も気にしては無かったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
研修終了後、大分製鉄所システム部の中枢、システム技術チームに配属され、大分製鉄所操業システムの次世代開発に就いた。部署の性質上、システマチックな能力に長けた人物が集められており、当時２人の天才がいると言われた。雅治ともうひとりは[[株式会社ザイナス]]の江藤稔明社長である。&lt;br /&gt;
 時代もよかったのか潤沢な予算の中、数百万円する機器を自分専用で準備してもらい、「ＵＮＩＸ」について、思う存分研鑽を深めた。この時の知識が、インターネット時代の中で基盤を支える中核技術であり、自営業史中期を支える事になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仕事や就業環境に不満はなかったものの、同社の規則により未成年者は自動車の運転・通勤を禁じるとの事に反発を感じた。 部署の都合で残業もあり、公共交通機関では難しい状態を指摘し、上層部と交渉をした。最終手段は「退職」をちらつかせて、通勤許可を勝ち得た。さすがに１９歳でＢＭＷを手にすることは難しかったが、大分トヨペット王子店にてソアラ2000GT-TWINTURBOを入手し、ちょっと上から目線で産業通を疾走したのだった。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%AE%9F%E6%AF%8D%E3%81%AE%E6%AD%BB&amp;diff=616</id>
		<title>実母の死</title>
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				<updated>2016-06-12T16:45:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
[[1980年]][[4月]][[9日]]&lt;br /&gt;
永遠の意味を教えてくれた実母&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家出以後、&lt;br /&gt;
夏休みなど、長期休みの際は、北九州の母親の療養先で共に過ごすなどしていた。&lt;br /&gt;
病状は改善は見られず、変わりがないならば大分に居ようと準備を始める。４人生活の再開に心躍らせた。&lt;br /&gt;
しかし、中学校入学の２日前に食道静脈瘤破裂により急遺、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%81%AB%E5%AE%B6%E5%87%BA&amp;diff=615</id>
		<title>北九州に家出</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%81%AB%E5%AE%B6%E5%87%BA&amp;diff=615"/>
				<updated>2016-06-12T16:44:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[1979年]]&lt;br /&gt;
[[不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学５年のある日、男所帯に嫌気を感じ、家の金をかき集め、放課後に北九州まで家出まがいの事をした。大分駅で特急ニチリンの切符を買い、ひとまず父方の実家（祖母宅）で資金を増やし、さらに遠方地へ逃走する予定だったが、孫の来訪に感激した祖母がうれしさのあまり、叔父に自慢の電話をした事から居場所を知られてしまい、逃走初日の深夜に計画失敗となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の担任の先生は、そんな狂動を否定すること無く、特性を活かした学校生活を用意してくれた。&lt;br /&gt;
まだ時代的に、あきらかな知的障害に及ばない、多動やアスペルガー（高次脳機能障害）について学校側の知識も対応もなく、「きかん坊」「粗暴」「わがまま」とされていたのだが、担任は、雅治の特異性を見抜き、単独・集団のバランスを考慮してくれていた。例えば「クラス全員グループに分かれ作業をするが、馬場は一人教室に残ってイスの高さを調整しろ」と命じた。&lt;br /&gt;
もしくは、複雑な分類の作業について馬場が適任だと言った。雅治には感情論とは別に「世界観」が有ることを見抜いていた。&lt;br /&gt;
それゆえ家出まがいの事件も、何も言わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=614</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=614"/>
				<updated>2016-06-12T16:23:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* ｗｅｂシステム開発(従事)実績 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社&amp;lt;ref&amp;gt;自動車メーカーがホームページを公開したのは同社が世界初の事だった&amp;lt;/ref&amp;gt;　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=613</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=613"/>
				<updated>2016-06-12T16:20:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* ｄｏクラフト第３期・下請け会社として */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時は、公共料金の滞納も積み重なり、電気の停止通告を受けて、&lt;br /&gt;
「うちはコンピュータを使う仕事で電気がないと滞りを解消できない」と九州電力大分支店ロビーで土下座まがいの謝罪をした事もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大胆な体制縮小を施したが、積み重ねたマイナスも多く、&lt;br /&gt;
大分リースには、１５ヶ月もの延滞をしてしまった。&lt;br /&gt;
特に、ログハウスの社屋を提供してくれた大家さんには、３年分もの家賃を滞らせていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも本来なら支払い命令訴訟に至る案件であるが、分割完済まで待ち続けてもらった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体制縮小後、スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=612</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=612"/>
				<updated>2016-06-12T16:13:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* ｄｏクラフト第２期・低空飛行 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=611</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=611"/>
				<updated>2016-06-12T16:13:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* ｄｏクラフト第２期・低空飛行 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
窮状を心配した先輩経営者兄弟が、ｄｏクラフト再建にアドバイスを頂いたが、その先には囲い込みのイメージがちらついたため辞退した。&lt;br /&gt;
その後、いくつかの接点を頂いたが、どれも条件付が多く、その道では自営を始めた趣旨が無駄になると思い断った。&lt;br /&gt;
接点が弱まったときの同氏らの転身と遮断は見事なもので、地場経営者に不信を抱くキッカケとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=610</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=610"/>
				<updated>2016-06-12T16:07:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* モテ期 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人付き合いの苦手は、初対面との会話や積極性に課題は残すものの、プレゼンテーションや業務の打ち合わせに支障はなく、自分の得意分野や世界観に相手を誘い込む事で乗り越えてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初対面への苦手意識の克服のため、大分市の歓楽街都ナイトセンター２Ｆにあった「パブジュリアン」でカウンターに立つ修行を１年ほど続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以外にも、違和感を感じずに、原口薫子ママの指示を受けながら常連客とのコミュニケーションも、従来スタッフとの接点も、うまく出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=609</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=609"/>
				<updated>2016-06-12T15:58:36Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* サラリーマン時代 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|サラリーマン社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親が新日鐵大分製鉄所関連会社に勤務していた事から、大きな会社への就職は安定生活確保へつながる道だと考え、パソコン少年である興味と照らし合わせ、新日鐵のシステム部を支援する関連会社へ就職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=608</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=608"/>
				<updated>2016-06-12T15:55:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* パソコンとの出会い */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響を受けマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=607</id>
		<title>山﨑雅治</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://wiki.un-an.jp/index.php?title=%E5%B1%B1%EF%A8%91%E9%9B%85%E6%B2%BB&amp;diff=607"/>
				<updated>2016-06-12T15:54:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Masaharu: /* 生い立ち */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&lt;br /&gt;
'''山﨑　雅治'''（やまさき　まさはる、[[1967年]][[10月15日]] 旧姓「馬場」 ）は、[[日本]]の創作家、営利企業代表者。&lt;br /&gt;
生家は馬場家だが、1998年4月5日に山﨑姓を使用する婚姻届を提出した。&lt;br /&gt;
ＩＴ業界ではコミュニケーションの効率上、馬場姓を用いる事が多い。&lt;br /&gt;
[[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市 大分県大分市]]在住。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生い立ち ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1967年]][[10月15日]][[https://ja.wikipedia.org/wiki/門司区 福岡県北九州市門司区]]生まれ。馬場家の二人兄弟&amp;lt;ref&amp;gt;兄の馬場眞澄は産婦人科医で[https://ja.wikipedia.org/wiki/大分市医師会立アルメイダ病院 アルメイダ病院の産婦人科部長]である&amp;lt;/ref&amp;gt;の次男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１歳の年末から２年間、[[長期入院]]を経て、自宅療養後、幼稚園年長組・小学校へ進む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校２年生へ進級に合わせ、北九州市から[[大分市に引っ越し]]をしたが、病気がちな母は大分で入退院を繰り返し、小学４年の３月から[[実母との別居]]が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の幼少時に母親が付き添いの長期入院の経験から母親との近距離感が生活の柱だったが、その母親との別居、そして男所帯に嫌気を感じ、[[北九州に家出]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、実母の容態は改善せず、中学校入学の２日に[[実母の死|急遺]]、帰らぬ人となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== パソコンとの出会い ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学２年の時、父親が後妻を迎え、市内で新居を構えたと同時に、兄は高等学校を卒業して防衛大学に進んだ。&lt;br /&gt;
兄とも離ればなれになり、義母を迎えた不慣れな生活の中で、中学校のクラスメートの影響でマイコンの存在を知ってはまり込んでしまい、[[マイコン少年]]になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、世の中に事業所用・家庭用マイコンの普及が進み、呼称もマイコンからパソコンへと変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マイコン少年も、時代に乗って、[[パソコン少年]]へと成長する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９８５年春に、法律の変更で、パソコンに電話回線をつなぎ通信が可能になった。通信サービスを行う団体が乱立し、大分市でも[[パソコン通信|ＣＯＡＲＡ]]と言う団体が発足した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
職業系の高校だったため、高校３年の１０月は[[就職活動]]をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== サラリーマン時代 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1986年４月、人生の中で唯一の[[サラリーマン入社|社会人生活]]が始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 転職・管理職 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1988年９月、[[サラリーマン退職|サラリーマン生活の終了]]、そして東京暮らし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[転職|転職先]]が、新富町&amp;lt;ref&amp;gt;銀座近隣であり都市高速沿いにあった事業所から数分で？？通りに出る位置だった&amp;lt;/ref&amp;gt;だったため、銀座界隈をくまなく歩いたが馴染めず、ITOYAと博品館に行く程度だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、転職時の条件通り、[[大分支店開設|大分での活動]]を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自営業・社長業を始めて・ｄｏクラフト第１期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アクシアム大分支店の低迷を受け、それを引き継ぐ形で東京本社と分離し、「[[ｄｏクラフト|株式会社ｄｏクラフト]]」を設立した。&lt;br /&gt;
仕事の多くは、大分支店時代のクライアントが引き継ぎに応じてくれ、初動は順調に進んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年３月、出張帰りと深夜作業の末、訪問先からの帰宅時に[[大事故 | 生死をさまよう大事]]を起こし、一時ｄｏクラフトの廃業も検討された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京と大分の二重生活をしながら、両市場で仕事を続けていく中で、長期にわたる関係を持つ人たちと出会う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はバブル経済のさなか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堅調な受注と、制作側主導の価格設定に好転を見せ、&lt;br /&gt;
人員の増加や、過剰な設備投資に走る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に、首都圏からの受注は高額に推移し、スーパーファミコンのソフト開発など、未経験の分野にも積極的に取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、当然の事ながら、すべてが成功と言うわけでは無く、失敗もあった。&lt;br /&gt;
特に、ＴＶゲーム関連と人材派遣のような業務は、体制と、業界のシキタリになじめず失敗する。&lt;br /&gt;
＃トラブルを参照&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
バブルに乗って、&lt;br /&gt;
社員の車は外車・新車が並び、来訪者も相応の人たちが駐車場を埋めた。&lt;br /&gt;
市中のカーディーラにもなじみとなり、新車が出る度に試乗の招待を頂いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第２期・低空飛行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首都圏の仕事と並行して、地場の事務系システムを手がけるチームがあった。&lt;br /&gt;
まだＰＣ９８が全盛で、ネットを組んでサーバークライアント型のシステムは数千万円の時代だった。&lt;br /&gt;
そこに、馬場の開発したシステムエンジンを使う事で、半額以下の費用で実現可能となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを基盤として、カスタマイスする業務を拡大していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・コンクリート製品販売管理&lt;br /&gt;
・物販在庫管理&lt;br /&gt;
・会員管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
などの受注を進めていくが、人手による作業そのものをシステム化する手法が全盛だった時代のため、煩雑な作業を盛り込みすぎたシステムは効率が悪く、またプログラムも膨大になり、トラブルも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結果として、受注額を上回る開発コストが支出され、赤字事業に陥る。&lt;br /&gt;
また、クライアントも事業展開のスケジュールが見通せず、破談に至ることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、最大の失敗原因は、部門責任として切り分けした体制を過信し、担当スタッフからヘルプのサインがあったにもかかわらず、雅治社長の目が行き届かなかった事が大きいと感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、抱えたスタッフの中に疲弊する者も現れ、最前線で任務することが難しい社員を配置転換する幅もなく、教育システムも成り立ってない社内体制は、減員の道を取らざるを得ず、縮小方向へ歩み始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｄｏクラフト第３期・下請け会社として ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
経営難と経営方針のズレから創業メンバーが退職し、彼らが手がけていたシステムをクローズさせるのに数年を費やした。&lt;br /&gt;
実際には、解決ではなく、リース期間の終了に伴う外的要因に助けられたかたちである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スタッフの退職で一人になり、パートさんと共に、電光掲示板用画像作成の下請け仕事だけを残した。&lt;br /&gt;
意外にも、これだけで生活が成り立つほどのボリュームだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとなく、旧知の友人より、ＣＡＴＶ開局の話を聞き、ｄｏクラフトの新規事業として「映像部門」を設立して、ＯＣＴ代理店業務と[[NEWAGEARTCUT|番組制作]]を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代理店業務と番組制作も、収益になると踏んでの事だったが、訪問営業の経験などない雅治にはムリな話で、業績もあがらず、番組制作もスポンサーの維持と拡大に及ばず、手出しによる運営になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
番組の関係で出入りするＣＡＴＶ局の、ケーブル敷設管理システムが稼働し、そのＣＡＤ入力の任務を打診された。&lt;br /&gt;
ＣＡＤシステムを納入した「ＣＡＤＩＸ」と協力し、入力代行会社「有限会社システムプレパレーション」を起業する。&lt;br /&gt;
※のち、アンクルアンティークと改称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企業グループの再編・二巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ｄｏクラフト名義で、契約を頂いていたクライアントの契約が切れ始めてゼロになる事をキッカケに、ｄｏクラフトは休眠にすることにした。&lt;br /&gt;
継続するクライアントや、首都圏のプロジェクト系任務は、ＣＡＤ入力を終えたシステムプレパレーションを、「有限会社アンクルアンティーク」に改称し、引き継ぎをした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、雅治が独立するキッカケとなった、アクシアムの同僚がＩＴ系商社に居たため、そこでのプロジェクトに参加することが多くなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・授業カリキュラム作成支援システム「キャンパスネットナビゲータＴＥＭＳ」（厚生省）&lt;br /&gt;
・再構成型描画ソフトウェア「脳の鏡」（文部省）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
扱う仕事は大きくなったが、過去のトラウマで、社員を増員すること無く、一人でこなすことが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、付き合う人種も層が変わり、豪華客船「ふじ丸」での海外クルーズや、銀座のクラブ周りなどを受ける側接待で楽しんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 共同出資による起業・三巡目モテ期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年４月の結婚をキッカケに、さらに事業の整理を進め、第１子誕生で自宅自営が可能なように仕組みを作った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来から、空き時間を見つけ、思いついた新システムをテスト構築し、クライアント様に提案する営業手法をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その流れで、携帯電話サイト「海辺の小瓶」を開発し、2000年７月に一般公開した。&lt;br /&gt;
当時は、携帯電話でインターネットの利用が可能だとしても、接続先は少なく、ネット体験に受けた人たちが殺到して、あっという間に１万人の会員を集める有名サイトになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この話を聞きつけ、地場で携帯電話ショップを展開する起業家が共同出資によるＩＴベンチャー設立を提案してきた。&lt;br /&gt;
この設立に参加したのが、齋藤健太郎である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２００１年２月、アイルテクノロジーズ株式会社を設立し、携帯電話サイトの企画・開発・販売を開始した。&lt;br /&gt;
また、事業ともう１つの柱として、馬場雅治のＩＴ技術を学ぶＩＴ塾を開校した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ＩＴスペシャリスト養成スクール　ＢＢーＢｒｕｎｃｈ」（通称：馬場塾）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この塾には、様々な事情を抱えた生徒が集まり、述べ２１人が巣立っていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンクルアンティークも、並行して事業を継続しており、&lt;br /&gt;
・ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）日本初のリアルタイムセルリキシステム&lt;br /&gt;
は、塾生のＯＪＴをかねて取り組んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アイルテクノロジーズは、馬場塾の卒業生と連携を取りながら、システム会社として動き出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代表者の吉田祐一郎と齋藤健太郎が持つ、幅広い人脈と地縁において、事業を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
馬場塾が第３期生を送り出した時、雅治は塾生の卒業後の保証に責任が取れない事を懸念し、馬場塾の休止を申し出た。&lt;br /&gt;
それと同じくして、世の中の不況の波が、共同出資者各々の士気に陰りを与え始め、事業力は弱含んで行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
齋藤健太郎と卒業生米田雄二は、二人三脚でアイルテクノロジーズを支え、抱えてしまったクライアントのサポートと広げた風呂敷の整理に奔走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人生の転換期 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妻佐和子の家業の存在が、雅治の人生を計画していく中で大きく影響を与えている。&lt;br /&gt;
婚姻の条件に、家業：三信工業を受け継ぐ事を約束し、２００３年から取り組みを開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雅治の手がけた事業から、手を引くべく、継続していたＩＴ事業の受け入れ先として、三信工業内にＩＴ事業部を設立し、既存社員４名を預かって、アイルテクノロジーズと合わせ、振り分けを進めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まったく異業種への参加は、雅治の戸惑いよりも、受け入れる既存社員や協力会社、そして業界自体が困惑した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時点では、創業者である山崎家義祖父、山﨑正巳が健在であったため、事業引継・世代交代について議論を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平成の時代・２１世紀に転換できなかった同社の傾様は明らかだったが、既存取締役会・山﨑家親族・地場企業経営者らは、昭和の文化を固持してシキタリを主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に言えば、全て敵だらけに至るのだろうが、佐和子は終始一貫して雅治を指示し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論から言えば、創業者は雅治の未来計画を承認したが、それ以外の反発が大きく、事業継続のレールから雅治は離脱し、事業は民事再生に至った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一時期は、建設業に身を沈める覚悟だったが、離脱によって宙に浮き、１年ほど浪人生活をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飲食業 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年８月に、三信工業から離脱した後、事業譲渡が出来なかったＩＴ系業務を個人で進めながら、調理の師匠「藤田哲也」のレストランに日参していた。&lt;br /&gt;
実母に「料理を作ってあげる」と誓った事が影響したわけではないが、事業として調理を手がける可能性を模索していた。&lt;br /&gt;
タイミング良く、「食品衛生責任者講習」を受け、飲食業に参入する壁が１つ解決した事から、自分の店を出す事を想像し始めた。&lt;br /&gt;
ただし、固定店舗を構え、毎日営業することは難しく、熟慮の上、移動販売車による飲食店を決断した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌2006年に、義祖父母と同居予定の新築住まいに、飲食業許可を取れる仕様に変更してもらって、調理場が完成した。&lt;br /&gt;
これに合わせ、中古のクイックデリバリーを入手し、自作で移動販売車を作り上げた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年９月１０日、自宅前で「カレーワゴンＮｏ２ｍａｓ」が開店したのだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私生活 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃からアスペルガーの兆候があったと思われるが、他の子たちと違った言動が目立ち、数名で動く場ではリーダーシップを発揮する事が多いが、逆に大人数の場が苦手で萎縮してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
感情の起伏は穏やかで、衝動を外部に向けることは無く、欲求を自分自身への可能性として空想し、また手先の器用さとカンの良さで、それらを実現することで独自の世界観を作り上げて来た。&lt;br /&gt;
苦手な分野（例えばチームスポーツ全般）には一切興味を示さず、得意分野や興味を持った分野では、その歴史や成り立ちまで遡って調べ上げるほど熱中する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな性格のため、精神的近距離の友人は限られており、成果に高評価を感じて接してくれる人も多かったが、自分自身との比較をすることで尊敬できない場合やメリットが感じられない人には距離を置くことが多い。&lt;br /&gt;
目の前の事実について感想を持つことは少なく「なぜそういう結果に至ったのか？」の方に興味が行くため、相手と話がかみ合わないことが多い。&lt;br /&gt;
例えば、近親者が交通事故に遭った場合、身体の心配より事故原因に夢中になる。そのため女性とのお付き合いは難しい事が多く、気味悪がられる事もあったようだが、その不安定さを心配するあまり距離を縮めてくる人も居たのは事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高校生までは、２４時間３６５日パソコンと共に過ごしていたが、社会人となり自動車を持って行動範囲が広がってきたあたりか、二人で行動するメンバーが絞られてきた。健康な男子の欲求にも特殊性や物理的問題は無く過ごしてきたが、熱心が執着心に変わることが難しいのか、独占欲が育たないため「自分だけを見ろ」と言う女性は苦手だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1987年７月２８日、毎月行われていたパソコン通信団体ＣＯＡＲＡの会合で、新規会員として参加した[[運命の出会い|現妻山﨑佐和子]]と出会い、長期に渡る関係の初日となった。&lt;br /&gt;
佐和子とは、パソコン通信を駆使し、彼女の進学先である神奈川と大分の遠距離を気にせず、互いの事を交換し合って行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
卒業後、大分に戻った彼女は家業に就いた。周囲は仲の良い二人だと感じていたが、彼女の家業が大分県下有数の企業グループで、将来の接点を考えるのは難しいとの見方が大きかった。&lt;br /&gt;
互いに、その環境を意識しつつ、極近距離に立ち入るお友達として接点は続いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな中、ｄｏクラフトが入居していた家屋の大家さんの関係から、親戚の女性を紹介される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1995年２月、周囲の予想に反して、その女性と入籍してしまう。この時期、ＣＡＴＶ向け番組を手がけ始めており、取材先に海外を希望していたのだが、その女性は外国企業のＣＡで旅費を低く抑える方法があると聞いた事から婚姻届を提出するに至った。&lt;br /&gt;
性急な結婚生活は、長く続かず、翌年に離婚する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある日、佐和子から近況のメールが届き、それに応じたことで再び顔を合わせるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、&lt;br /&gt;
1998年４月５日、大分市春日神社で挙式を行い、佐和子の家業に考慮して、馬場姓から山﨑姓に改めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*1999年６月12日、長女、詩音（うたね）　誕生&lt;br /&gt;
*2001年８月16日、次女、真凪（まなぎ）　誕生&lt;br /&gt;
*2005年４月18日、三女、紗代実（さよみ）　誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年、義祖父母の自宅改築に合わせて同居を考え、自分たちの意見をいれてもらい自宅を新築した。しかし完成前に義祖父が逝き、同年11月には義祖母も逝った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長女誕生と同時に、対外的な仕事を整理し、在宅任務が可能な業態へと変更した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、根っからの子供キライなのである。&lt;br /&gt;
理由は、簡単で、子供はシステマチックな理論が通用しないからである。&lt;br /&gt;
同じく、大阪のおばはん的な人や、感情で言動する女性や、凝り固まった老害もキライである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆえ、雅治の両親など周囲は、実子の世話をするなんて事は想像していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分がイクメンになろうとしたわけではなく、子供らの母がたいへんそうな時に手伝えれば良いと言う程度だった。&lt;br /&gt;
しかし、その為には２４時間対応を敷設したく、仕事も生活も大きく変えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[乳児と過ごすシステム]]」としてとらえており、子育てとは思っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 業務システム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* Ｐｏｓｔｍａｎ（インテック）：サーバー間メッセージ転送システム&lt;br /&gt;
* Ｊ−Ｆｒａｍｓｓ（地域科学研究所）：不動産鑑定書作成支援システム&lt;br /&gt;
* Ｗｉｒｅ（後藤國利事務所）：後援会名簿管理システム&lt;br /&gt;
* 生活習慣病データベース（厚生省（当時））：産業医支援システム&lt;br /&gt;
* キャンパスネットナビゲータ（早稲田大学・東京医科歯科大学・桐朋学園・拓殖大学）：授業支援システム&lt;br /&gt;
* 脳の鏡（文部省（当時））：再構成型描画ソフトウェア&lt;br /&gt;
* 番組編成システム（ＤＮＡＣ－ＴＶ）：ＣＳ番組編成システム&lt;br /&gt;
* 魚に聞いたさかなの話（マリーンパレス）：生態紹介映像システム&lt;br /&gt;
* ネルソンベンディング（ＡＬＡＮ）：レンタルビデオ自動手続きシステム&lt;br /&gt;
* 自動納入システム（アドプロ長野）：電光掲示板ファイル納品システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ｗｅｂシステム開発(従事)実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* エスエス製薬：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* ほのぼのレイク：販促キャンペーン受付サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（東京モーターショウ）：自動車検索データベース&lt;br /&gt;
* 海辺の小瓶システム（アイルテクノロジーズ）：メール友達募集サイト&lt;br /&gt;
*わしゃ見た！（デジタルバンク）：おもしろ情報投稿サイト&lt;br /&gt;
* 情報検索システム（時計Ｂｅｇｉｎ）：アンティークウォッチ検索データベース&lt;br /&gt;
* ファンド情報データベース（新光投信）：投資信託データベースシステム&lt;br /&gt;
* ＧＵＩ型サーバー（ＪＥＴＯＮ）：FirstClassシステム&lt;br /&gt;
* 新宿情報館システム（ｄｉａ建設）：物件情報システム&lt;br /&gt;
* ライブシャッター（国土交通省）：国道監視映像ｗｅｂ化システム&lt;br /&gt;
* ペプシ「ベッカムグッズキャンペーン」（サントリー）：セルフリキデーションシステム&lt;br /&gt;
* ＯＰＥＬ社　ホームページＶｅｒ１．０（グラフィック支援）　&lt;br /&gt;
* 大分ケーブルテレビ放送　ホームページ&lt;br /&gt;
* 港区神応小学校　ホームページ&lt;br /&gt;
* ホテル芙蓉倶楽部　ホームページ&lt;br /&gt;
* デジグラム：ＶｉｄｅｏＣＤサービス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映像制作実績 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*NEWAGEARTCUT（現代美術作家ドキュメンタリー）企画・制作&lt;br /&gt;
*Project DEGIGRAM（パソコン番組）企画・制作&lt;br /&gt;
*対戦テロップ表示（ＴＯＳ）全国高校相撲選手権対戦映像　制作&lt;br /&gt;
*大分ケーブルテレビ放送殿　社ロゴ他３Ｄアニメーション　制作&lt;br /&gt;
*日新信販殿　テレビＣＭ制作（クモの糸編・ジグソーパズル編）　　　　&lt;br /&gt;
*臼杵市月桂寺檀家組合殿　月桂寺修復イメージ映像制作&lt;br /&gt;
*やまばと幼稚園殿　卒園式記念映像制作&lt;br /&gt;
*電光掲示板画像製作&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トラブル ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*大手の下請け作業に着手するが[[ＴＮＢソフトウェア|訴訟まがいの失敗]]&lt;br /&gt;
*大分県内の旅館業務システムを受注するが仲介社との[[サークルワン|連携ミス]]で開発消滅&lt;br /&gt;
*スーパーファミコンソフト開発に参加するが様々な理由で頓挫&lt;br /&gt;
*代表者の特殊な思考が災いし、取締役が強行に辞任した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年譜 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[1967年]][[10月15日]] - [[出生|福岡県北九州市にて出生]]&lt;br /&gt;
*[[1968年]][[12月]] - [[長期入院|幼少期を入院生活で過ごす]]&lt;br /&gt;
*[[1973年]][[04月]] - [[小学校入学|北九州市立柄杓田小学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[03月]] - [[大分市に引っ越し|大分市に引っ越し]]&lt;br /&gt;
*[[1974年]][[04月]] - [[小学校転校|大分市立明治小学校へ転校]]&lt;br /&gt;
*[[1978年]][[03月]] - [[実母との別居|母親が病気療養のため別居する]]&lt;br /&gt;
*[[1979年]] - [[北九州に家出|不満と冒険心で家出]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月]] - [[中学校入学|大分市立大東中学校入学]]&lt;br /&gt;
*[[1980年]][[04月09日]] - [[実母の死|永遠を意味を教えてくれた実母]]&lt;br /&gt;
*[[1982年]][[04月]] - [[マイコン少年|システム脳を満足させるマイコンと出会う]]&lt;br /&gt;
*[[1983年]][[04月]] - [[高校入学|大分県立鶴崎工業高等学校電気科入学]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン少年|パソコン少年はプロとして歩き出す]]&lt;br /&gt;
*[[1985年]][[04月]] - [[パソコン通信|ＣＯＡＲＡとの出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[03月]] - [[高校卒業|大分県立鶴崎工業高等学校電気科卒業]]&lt;br /&gt;
*[[1986年]][[04月]] - [[サラリーマン入社|日鐵コンピュータシステム株式会社入社]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[11月]] - [[大分支店開設|株式会社アクシアム取締役辞任]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[サラリーマン退職|新日鐵情報通信システム株式会社退職]]&lt;br /&gt;
*[[1988年]][[09月]] - [[転職|株式会社アクシアムに転職]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[12月25日]] - [[ｄｏクラフト|ｄｏクラフト設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[06月13日]] - [[大分ケーブルテレビ|大分ケーブルテレビ放送株式会社設立]]&lt;br /&gt;
*[[1989年]][[07月28日]] - [[運命の出会い|山﨑佐和子との出会い]]&lt;br /&gt;
*[[1990年]][[03月09日]][[01:00:00]] - [[交通事故|生死をさまよう大事故]]&lt;br /&gt;
*[[1994年]][[12月22日]][[00:00:00]] - [[NEWAGEARTCUT|NEWAGEARTCUT放送開始]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.docom.co.jp/ 株式会社ｄｏクラフト]&lt;br /&gt;
* [http://www.almeida-hospital.com/ 大分市医師会立アルメイダ病院] - 公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:やまさき　まさはる}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の経営者]]&lt;br /&gt;
[[Category:福岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Masaharu</name></author>	</entry>

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